『猪突盲進』-原田燎太郎

World as One Family by Work Camp

蘇文秀村長との筆談

村長「西尾雄志さんは、遠く日本から万里の道のりを越え中国にきて、疲れているにも関わらず、車を降りるなり労働に参加した。すばらしい。しかし、明日は休息をとってもらいたい。みなさん、ゆっくり休みなさい」。

村長「おまえたちは11月17日に日本に帰るんだろう、とても悲哀的で苦しい」。

原田「来年の2月か3月にまた来ますよ」。

村長「おまえたちのうち何人がまたくるのか」。

原田「ぼくと西尾雄志は確実にきます」。

枡田「わたしは来春、卒業し、就職します。就職の前に研修があるので、不確実ですが、また来たいと思っています」。

村長「何の仕事をするんだい」。

枡田「編集者です」。

村長「新聞社のかい」。

枡田「いいえ、わたしの会社は情報誌の出版社です」。

村長「記者になれるのかい。まあ、中国とは違うんだろうな」。

枡田「わたしの会社は特殊で、編集だけでなく、自分で記事を書くこともあるんです」。

村長「『記事』ってなんだい、よくわからんのだが」。

原田「記者が取材してきたことを文章にまとめたものを日本では『記事』といいます」。

村長「なるほど。(枡田に)太郎さんは将来、記者になって駆けずり回るそうだぞ」。

原田「ぼくの名前は『僚太郎』で、姓は『原田』ですよ」。

村長「そうか、そうか。たくさん取材しないとな。おまえは足が長いから走りまわるのにも問題ないだろう」。(笑)

村長「おまえたちが17日に日本に帰ったあと、村がまた静まりかえったら、それに慣れるのは難しく、とても苦しい。永遠におまえたちの功労を忘れないぞ」。

原田「ぼくたちもあなた達を永遠に忘れません。ぼくたちが帰ったあとも、中国人の学生はここに来るはずですよ。ぼくたちはお別れパーティーを土曜日にやりたいと思ってます」。

村長「村ではいらん。医院がおまえたちを招待するだろうからな」。

村長「(ハンコを見せながら)村人が生活費を受け取りにきたとき押すんだ。毎月1人60元だ。(ハンコを押して)『潮安県リンホウ農場財務専用章』とある」。

枡田「1ヶ月60元で暮らせるんですか」。

村長「実際は米を買うために120元があり、節(祭り)のために積みたてている」。

○月×日

原田「いま彼(真人)は疲れて寝てます」。

村長「潮州では『工夫茶』というんだ」。

西尾「苦い」。

原田「ぼくは苦いの好だけどな」。

村長「医院の職員で当直の者は毎日この村にきて、自分の名前をこれに書き込んでいくんだ」。

原田「ぼくは黄院長を村で一度しか見てませんよ。代理人が彼の名前を書いてるんですか」。

村長「そうだ」。

原田「本当なら、本人が村にきたときだけその名前をかけるんじゃないんですか」。

村長「いや、彼はここの院長で、政治経済各方面の管理全般をおこなっているから問題ないんだ」。

原田「重病人は古巷医院に行くと村長はいわれましたが、まだそれを見てないんですが」。

村長「年をとっているから不定期なんだ。突然何かが起こって村にある薬では間に合わないときに初めて古巷医院にいくんだ。きわめて稀なことだ。考える必要もないことだ。死を待っているんだ。消えて無くなる最後だ」。

原田「陳宏広さんは古巷医院にいったんですか」。

村長「いや。75歳の彼自身が年をとったことを感じていたし、長い間苦しみ、古巷医院は無用だった。(蚊にくわれたところをかきむしる原田をみて)おまえの肉と皮は甘いから蚊が食いたがるんだろう(笑)。ここの山間区は蚊が多いから長袖長ズボンと靴下をはきなさい」。

原田「孫叔叔はこないだの晩、リンホウ医院でテレビを見てたですけど、その番組は中国と日本の戦争を扱ったもので、日本軍の残虐行為についてたくさんの人が証言していました。叔叔の顔はとても悲しそうでした。彼のお父さんは亡くなったそうですが、戦争で殺されたのですか」。

村長「彼の父は戦争で死んだのではない。農業を営んでおり、解放後(1949年10月1日中華人民共和国成立後)病死したと聞いている。たしか30年ほど前のことだ」。