インチンとの別れ
11月17日、空が青くさえ渡る。リンホウを去る日だ。マークは村人と打ち解けているが、この日までまだ握手をしたことはない。
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午前8時すぎ、村人1人1人に別れをつげてまわる。許さんは静かに、お茶を入れつづける。合計で6杯飲んだ。
蘇さんは紙片をくれる。<緒位日本朋友你們好身体健康、祝你們一路平安。敬礼再見>。握手し、消えそうな声で、
「再見」。
蘇さんに聞こえただろうか。
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歩ける村人はすべて中庭に集まっている。まずはインイン・インチンのところへ行こう。
「ハア、ハア、ハア、ハア…」
インチンは薄い布団をかぶってうつぶせに横になっている。まさに「虫の息」だ。昨日も寝ていたが、具合が悪かったからか。インチンが搾り出す言葉を、入り口にたたずむマークが通訳する。帰路の安全を祈る言葉だ。
時々、苦しそうに息が高くなる。インチンは、彼女の手をさすっている陽子に、おまえさんは親切だねと、泣く。涙を拭いてあげる泉。私はいたたまれなくなり、外に出て座り込み、泣いた。隔離政策が憎い。郭さんは私の肩に腕をおき、涙を流し、声をあげて泣き、
「インチンは姉のような存在だ。みんな死んでいく…」。
マークはしゃがみこんで郭さんの肩を抱き、うつむく。部屋からインチンの声がする。
「私のことは心配しないで、幸せに日本に帰りなさい。謝謝、多謝…」。
マークは彼女の部屋に入り、しゃがみこんでインチンを見る。陽子はひざまずいてインチンの手をさすりつづける。と、マークは、木のベッドに近づき、指が小さくなったインチンの手を両手で包み込んだ。しばらく動かない2人。
「謝謝你、多謝你」。
インチンはそう繰り返す。
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「これがハンセン病を病んだ人の最後だ。おれは政府を許さない」。
中庭に戻りながら私がいうと、マークは横を向いて目を落とし、2度3度うなずいた。
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午前9時、潮州市のバスステーションに向かうバスを医院で待つ。院長は私の目を指差し、泣いただろという。黄組長はいつもの笑顔。
医院の職員の不作為を憎むのは簡単だ。しかし、それでは何も変わらない。医院でいちばん若い黄組長がインチンを見舞うように、私はマークを通して頼んだ。組長は笑顔でうなずきながら握手してくれた。マークからのメール(2002年12月1日)によると、組長は医者を伴ってインチンを見舞った。彼女の病状は快復に向かっている。