村の外の人々の変化
日中の学生の活動は、村の外の人々のリンホウに対する見方を少しずつ変えているようだ。潮州の人々はリンホウとワークキャンプのことを知り始めている。村の外の人々がリンホウに遊びにきた。地元テレビがリンホウを取材した。今後、ハンセン病、リンホウ村、そしてワークキャンプへの社会の関心がどのような効果をもたらすだろうか。
潮州の街の人たち―開元寺の住職
フリーデーのとき、潮州の有名な寺院・開元寺の向かいにあるお茶屋さんの女の子と悠子ちゃんが友達になった。悠子ちゃんと私はその店を経営している開元寺の住職と筆談する。住職は書く、
「開元寺去了嗎?」
開元寺には行ったかという意味だ。
「ううん、まだ!でもね、リンホウに行ったの!」
悠子ちゃんはそう言うと、私にハンセン病を中国語でどう書くのかを訊き、こう書く、
「麻風病村人我」。
住職は驚いて言う、
「あんた麻風病(ハンセン病)村の人なのか!?」
「違います。私たちはハンセン病を経験した人たちが住む村の家屋を建て替えているんです。彼らの生活環境はひどいものです」。
私はこんなことを意味するだろうと思われる漢字を並べて書いてみた。住職はわかってくれたようだ。住職は村のことやワークキャンプのことについて筆談で尋ね、最後に書く、
「そうか。村人の幸福を祈る!何か手伝えることがあったら言ってくれ」。
古巷の町の人たち
キャンプ中の食事は当番制でキャンパー自身が料理する。食事当番には2人が1日交代で割り当てられる。2人は自転車で20分の山道を登り下りしながらクーシャン(古巷)の町まで買い出しに行く。帰りは雑貨屋で冷たいビールを飲みながら、山道を上がる英気を養う。村には冷蔵庫がないので、冷たいビールは買出しの時にしか飲めない。その雑貨屋のおばちゃんは、私たちがリンホウにいることをなぜか知っていた。
クーシャンの市場の肉屋のオヤジも知っていて、タバコをくれ、周りの人にリンホウでのキャンプのことを話していた。このオヤジとは2002年11月キャンプ以来の顔見知りだ(相変わらず値下げ交渉には応じないが)。
リンホウ医院の職員・蔡さんは、その一族を連れて村に来た。1~2歳の男の子から15歳くらいの少年、60歳ほどのおじいちゃんまでが車2台で山奥のリンホウまでやって来た。リンホウ医院の近くでウナギの養殖をしているおばちゃんも村にやって来た。
リンホウ村とそこでのワークキャンプのことは、次第に潮州で知られ始めている。村を訪れる人も増えてきている。もっと人の往来を村に生み出せば、ハンセン病快復村・リンホウを巡る状況は変わるかも知れない。
テレビが来た
3月9日、潮州市の地元テレビがリンホウを取材しに来る。このテレビ局の人は師範学院外国語学部の邱学部長の友人なので、この取材が実現した。まずテレビカメラが向くのは、リンホウ医院の院長がFIWC関東委員会委員長の西尾雄志に旗を渡す場面だ。この旗にはこうある、
「送 友好国際労働営東京委員会(注、関東委員会のこと) 『無私奉献、品徳高尚』 潮安縣嶺後医院 贈」。
つづいてカメラは男のキャンパーが泊まっている部屋を撮影する。掃除しておくべきだった。
テレビ局の人は、村人、学生、キャンパーたちにテーブルを囲んで座らせる。そして言う、
「トーキング、トーキング!」
おしゃべりは命令されてするものではない。さらに、
「はい、次は村長のうちでトーキング!」
村長は緊張気味に私たちに語りかける、
「おまえさん方は中国語がうまいな。たいへんなキャンプ生活でも不満を言わないな」。
脈絡も何もあったものではない。
「はい、じゃあ、今度は歌って!」
亮輔のギターを中心に集合写真のように並んだでキャンパーと学生が歌い、対面で村人が聴いている場面がカメラに収められる。テレビはカンペイちゃん、院長、ナンシー、私にインタビューすると、帰っていく。
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この番組は実際に放送された。しかしその内容は、「日本からきた学生」のことが中心で、ハンセン病の医学的知識やリンホウ村の困難な状況についてはあまり触れていなかったという。この番組はどんな影響を社会に与えるだろうか。