『猪突盲進』-原田燎太郎

World as One Family by Work Camp

キャンパーがリンホウで感じたこと

このような村人をワークキャンプで訪ねた中国の学生、日本のキャンパーは、何を感じたのだろうか。みんなはキャンプ中、村について、村人について語ってくれた。キャンプ後、手紙をくれた。そんなみんなの声を集めてみた。

・ジル(韓山師範学院外国語学部4年、♀)

インチンと話すのが好き

さあ、昼メシだ。…ジルがいない。またインチンの部屋かな。行ってみると、師範学院の学生・ジル(♀)とインチンが話し込んでいる。2人は仲良しで、昼ゴハンの時間を忘れるほどだ。

 「ニーハオ、ニーハオ」。

 そう言いながら部屋に入っていくと、ジルは振りかえって笑いかける、

 「私とインチンは苗字が同じだったの!」

 インチンは自らの体験を学生たちに語る。当時隔離された患者たちのが多くが10代だったこと、村に来てから40年近くになること、かつてリンホウにカナダ人の医師がいたこと…。

 「インチンと話すのが好き。インチンは話したいことがたくさんあるの。全部を聴きたい」。

 ジルはインチンの、そして村人の魅力に気づきはじめた。言葉の壁がない彼女には、インチンの生涯を聞き書きしてもらいたい。

ジルからの手紙

私は帰国後、ジルから手紙を受け取った。以下はその翻訳抜粋;

リンホウに初めて行ったときのことをまだ覚えてる。村人の生活状況は想像をはるかに超えていた。こんなひどい環境で暮らしている人がいるのをこの目でみて、ショックを受けた。それでも、日本のキャンパーが村人に対して友好的だった。中国語であいさつし、握手する姿を見て、リョータ(燎太郎)の村人との関係は、私たち学生たちとの関係よりも、近いと感じた。中国人として恥ずかしかった。

こんなことを言うのも難だけど、私は自分をけっこう親切な人だと思っていた。でも、村人と握手できない自分を見つけたとき、村人と親しく話すことができない自分を見つけたとき、そしてそれを日本のキャンパーがしているのを見たとき、私は学ぶべき何かがあることに気づいた。リョータは私と同じような経験をしたんだよね。

リョータといっしょに(長屋Bの建て替えについての)アンケートを取っているうちに、だんだん村人を受け入れていく自分がいた。アンケートを取っている時に村人の話や経験を聴いたから。私は、今まで知らなかった人生についての何かをつかんだような気がした。

人生においてのたくさんの栄枯盛衰を聞いてきたけど、村人の人生を知るようになって初めて、生きるための精神力とは何かを理解し始めた。村人にとってそれは本当に困難だったけど、彼らは生き抜いた。村人を尊敬する。

でも、このことを知らない学生を含めた多くの人たちは、初めは村人を受け入れられないと思う。でも、一度でも村人の生活を実際に見て村人を理解するようになれば、そうしたらみんなが私たちみたいに最善を尽くして村人を助けたいと思うはず。だから、村のことを多くの人に広めていくことが本当に大事だと思う。そうでしょ?

前にも話したように、私はいつも人生の意味を探している。満足のいく答えを見つけるのは難しいし、もしかしたら答えはないかもしれない。でも、最善をつくす。それに私はいつも人生を楽しんでるし。みんながそれぞれの価値観を持っていて、それぞれが価値があると思うことに従って生きているよね。小説には人生の歩み方のすべてがあって、私たちはすべての種類の人々、人間の本質を知ることができる。だから私は小説を読むのがすき。リョータもこの問いの答えを探してるのよね?リョータがその答えを探す方法を知りたい。

・マーク(韓山師範学院外国語学部4年、♂)

11月キャンプでは、学生たちは日帰り参加だったが、マークは6日間キャンプに参加した。初日は村で、以後はリンホウ医院に泊まった。2月キャンプでも彼は医院に一泊した。そのマークが手紙をくれた;

初めはワークキャンプのことを何も知らなかった。リョータが助けを必要としていたし、日本の文化を知りたかったからキャンプに来てみたんだ。

最初は、通訳だけやってればいいと思ってた。でも、想像を超えた現実が待っていた。村は街から遠く離れていて、村まで行くのは大変だった。そのうえ村の状況はとても貧しかった。でも、むかし田舎に住んでいたからその状況を受け入れることができた。それにリンホウ医院の職員と村人がとても親切にしてくれた。とても居心地がよかった。医院が用意してくれた歓迎のための夕食をまだ忘れられない。

村に着くと村人はすっかり準備を整えていてくれた。彼らの暖かい歓迎にとても感動した。荷物を置いた後、リョータと一緒に村人の家にいったね。何人かの村人は足がなく、指がなく、目が変形していた。ボクは少し恐かったが、敬意を払った。それでも、ボクはまだ病気を恐れていた。だから、リョータが村人と握手するのを見て本当に感動した。日本のキャンパーが来てくれたこと、幸せを運んできたことで、村人も喜んだ。

最初の夜、ボクは村に泊まった。でも、たくさん蚊がいてよく眠れなかった。寝返りをうつと木のベッドはギシギシいうし。それに、夜トイレにも行きたくなった。こういったことがキミたちの眠りを妨げただろう。だからリンホウ医院で寝ることにしたんだ。医院なら夜に勉強もできるしね。

多くの問題に直面したので、キャンプ中の物事はうまく進展しなかった。自分の食事のことを考えなければならなかった。そのころ十分お金を持ってなかったから、問題だったんだ(注、マークはキャンプ費の支払いを免除されていたが、遠慮して私たちと食事するのをためらった)。そのうえ、中国の習慣から考えると居心地が悪く感じた。でも、ボクはひどい間違いをおかしていた。キミたち日本の側に立ってみようとしなかったんだ。キミたちの見方から僕は物事を考えるべきだったと思う。今でもそのことをすまないと思っている。でも、今はお金の問題はもはやどうでもいい。「協力」がはるかに大切だということがわかったんだ。

その次の日、村人がボクに赤い包みに入ったお金をくれたんだ。断ろうとしたんだけど、村人は受け取るようにと言って譲らなかった。ついに、ボクは村人のために食べ物を買うことにしてそれを受け取ったんだ。金額は多くなかったけど、村人の親切な心にとても感動した。後で、彼らはお金がほとんどないことをしって、それを返そうとしたけど、彼らは同意しなかった。だから春節(旧正月)の前に村人に会いに行ったんだ。今もそのお金は記念にとっておいてある。そのお金を使わないために、陽子にバス代を借りたんだ。

キミたちと一緒にいればいるほど、だんだん深くキミたちのことを知るようになった。協力の精神(食器を一緒に洗うこと)、独立の精神(市場に自分たちだけで行くこと)、働き方(歌を歌いながら食器を洗ったり、汗を流した後にビールを飲んだり)。ボクの忍耐力はキミたちと働く間に培われた。市場でキミたちを待っていたり、お腹がすいてもガマンしたり。「お腹すいた」っていう言葉を言わなくてもすむようになったよ。長時間待たなくちゃいけなくても、あまりお腹がすかなくなったよ。市場に行ったときのことが懐かしい。楽しかったな。

キャンプ最終日のことは忘れられない。人生における重要な教訓を学んだよ。あの時、インチンが死にそうになってたよね。彼女のうめき声を聞いたとき、彼女の手をキミが握ったとき、キミの涙を見たとき、ボクは人生って短いんだなと思った。ボクたちは気遣いを示さなければいけないんだなと思った。いつかボクたちも年を取り、病気になり、助けと愛を必要とする。今では家族のことが前よりも好きになったよ。ボクたちは人を愛することを教えてもらったと思う。

ボクたちのワークキャンプに参加する人がどんどん増えている。ボクのように、ワークキャンプは人の人生を変える。今、ボクはワークキャンプの精神を理解し始めた。初めはほとんど知らなかったけど。

   *

マークからの手紙の中に、私は「ボクたちのワークキャンプ」という言葉を見つけた。

・阪井悠子(17)

許さんが悠子ちゃんにお茶を入れてくれる。

 「苦いから飲めないー」。

 許さんは菊の花のお茶を入れてくれる。貴重品の砂糖もたっぷり入れてだ。

 「自分が傷ついた人ってやさしいよね。傷つくからやさしくなれる」。

 悠子ちゃんはゆっくりとそう言うと、許さんにお礼を言って菊茶を飲む。

 「うわーッ、甘い!」

・中平勝(62)

リンホウを去り、広州に帰ってホテルに泊まる。体調を崩している中平さんはすぐにベッドに横になった。私はシャワーを浴びようと彼の隣でバックパックを開いている。と、中平さんの声がする、

 「村人の家の床、早く板張りになるといいですね」。

 寝ているのかと思っていたが、中平さんは、足が不自由で冷たいコンクリートに座り続ける村人のことを想っていた。 

 「(キャンパーがリンホウを去るとき)村長泣いてましたよ」。

 あの快活な蘇村長にとっても、別れはつらい。中平さんの想いは、まだリンホウにあるのだろう。

   *

帰国後、中平さんはキャンプの感想を書いた手紙をくれた;

GNP急上昇中で、草木もなびく中国の旅。

 広州から潮州の長距離バスの車窓から、バラック小屋がコロニーとなって延々と続く、その向こうに近代的マンションが又続く。

西尾雄志さん島倉陽子さんに伴って頂き4日夕方近く、FIWCメンバーに迎えられて、「中国ハンセン病療養所の中でも最も貧困」といわれているリンホウ医院に着く。

現地中国からのラジオ放送にもあった如く、当地のハンセン病対策は大幅に遅れていた。

隔離は撤廃されていたが、トイレのない、要バリアフリーの建物。冷たいコンクリートの上での薪による粥食自炊。完成はしたが軒下の水道。シャワー浴のできない環境。着た切りの粗末な衣類。鶏の卵、たまに食べるという鶏肉の蛋白質、猫の額ほどの畑からのビタミン補給。月1回日本円で1800円の給与金。

かつて300人程いた入所者は今、高齢の13名が残っている。

入所者の身体の状態は、歩行面では、不能4/13名。松葉杖歩行1/13名。全盲に等しい人1/13名。片眼失明2/13名。手指、足趾面は変形・欠落10/13名。知覚麻痺者が多く、創部のある人7/13名で、うち緊急に高度医療で対処の必要な人が1名いた。

医薬品の投与に至る過程の中にも問題が多々見受けられる。医学・看護学の専門的知識の普及と指導に、日本の専門医の訪中指導があればいいと考える。何よりマンパワーが不足している。

3月11日に帰国したが、地元韓山師範学院のボランティアグループと、日本FIWC関東委員会の交流で、師範学院の学部長と学生の中に、真摯な魂を見たのはこれからの希望だ。きっとよい環境になる。そう信じている。

日中友好の観点から医療と物的・労働の援助を訴えたい。