『猪突盲進』-原田燎太郎

World as One Family by Work Camp

村人の家計を圧迫

はじめて、医院で朝ご飯を食べなかった。朝起きてすぐ、村に向かう。やっと自分で料理ができる。が。やる気満万で米を研いでいる私の肩を若深さんが叩く。彼は身振りで部屋に来いという。さては…。

予想は的中した。若深さんは甘く煮た豆を食べろという。結局こうなってしまうのか。もちろん、村人がご飯をくれるのはとても嬉しい。しかし、私のせいで村人の家計を圧迫してしまうのではないかという心配がある。

田記者

10時過ぎ、村の部屋で机に向かっていると、若深さんのデカイ声がする、

「チーチャー!」(記者)

すぐさま部屋の外に出ると、がっしりした若いおじさんがバイクから降りてヘルメットを脱いでいるところだった。

「ニーハオ、ニーハオ」。

彼は旧友に会うかのような握手を返してくれる。姓は田、名は培青。44歳の彼は『潮州日報』という新聞社の記者だ。私が自己紹介すると、彼はそれを遮る。田さんはFIWC関東委員会のキャンプ報告を読んでいるからすでに知っているという。私が村人に書いた手紙まで読んでくれたそうだ。

田さんは3ページに渡る文書を見せてくれる。彼が書いたリンホウについての記事だ。来週の水曜日に新聞に載るという。記事は、昨年9月にFIWC関東委員会が初めてリンホウに行ったときのことから2月のワークキャンプまでのことが書かれている。

田さんは大きくうなずきながら、蘇村長の話を集中して聴いている。村人の話にこれほど熱心に耳を傾ける人を他に見たことがない。彼は昔リンホウの近くに住んでいたという。子どもの頃は薪を拾い集めてカマドで料理していたそうだ。

許さん・曽さんと昼ご飯

11時少し前。私は昨日、許さんのところで昼ご飯をご馳走になる約束をしていたので、田記者に理由を説明してサヨナラを言う…が、その次の瞬間、一緒に行こうと彼を誘っていた。

「ハオ、ハオ、ハオ!」(おう、行こう、行こう!)

彼はワークキャンプ的なノリを持っている。キャンパー以外の人で、村人と食事をしようと誘う気になった人は彼が初めてだ。

「60~70年代、ハンセン病は感染しやすい病気だと政府が宣伝したため、人々は、現在のSARSを恐れるようにハンセン病を避けたが、今は一緒に飯を食えるんだ」。

許さんがつくった焼きビーフンをほおばり、ビールで流し込む田さんは興奮してしゃべりまくる。曽さんは異常にご機嫌で、焼酎をクピクピ飲む。

あんた、1年もここにいるのか!?

昼食後、私が村で借りている部屋で、田さんと話す。

「あんた、1年間もここにいるのか?!いったい何するんだ?」

私は、リンホウを支援する団体が師範学院に設立されるのを見届けたいこと、その後は広東省に学生の支援ネットワークをつくりたいことを話す。

「ハオ!」(いいな!)

田さんは親指を立て、力強く私の方に突き出す。ただ、資金面に問題があることを忠告する。社会はハンセン病問題に対して無関心で、寄付は集まらないだろうという。ここぞとばかりに私は筆談する、

「だからこそ、田さんの力が必要なんです」。

「そうか、来週の水曜日にリンホウの記事が出た後の社会の反応を見てみよう。潮州の慈善団体『福利院』に一緒に行ってやってもいいぞ」。

強力な助っ人を得ることができたのかも知れない。

蘇村長の甥

痛いほどの握手を交わし、田記者はスクーターで帰っていった。と、蘇村長の部屋から若い男の人が出てくる。自転車に荷物を結び付けている彼を、村長は静かに見守る。顔が村長に似ている。

「ルーダパーパ?」(お父さん?)

がっしりした体格のその人に聞いてみる。

「プースー。ワーダパーパーダカーカ」(いや、オヤジの兄貴だ)。

その人は静かに微笑みながら答える。照れながら2人は写真に収まった。

キコキコ自転車を鳴らしながら帰っていく彼の後ろ姿を見、ちょっと淋しくなった。

人の往来がある村

村を通り抜けて山を上っていくと、採掘現場がある。そこでは四川省貴州省出身の人々が働いている。彼らのボスと思われる人はタニムラ=シンジそっくり。彼が奥さんと2人の孫を連れて村にやって来た。大騒ぎしてサトウキビとナシを食べ、お茶を飲み、帰っていく。何しに来たのかはよくわからない。

村には結構、外部の人が来る。四川省貴州省から出稼ぎに来た10人ほど人々は村人の許さんの隣に住んでいる。廃品回収業者がくる。床屋さんが来て、村人の髪を切る。野菜を売りに来るおじさんがいる。村長の甥といい、カンペイちゃんの帰省といい、中国の人々に異常な偏見はないように見えるのは気のセイか。