猪突猛進-原田燎太郎

World as One Family by Work Camp

このブログに書いてあること

 2002年から現在に至るまで、僕らは中国華南地方の6つの省にあるハンセン病快復村60ヶ所で活動し、参加者は延べ2万人以上となった。活動はインドネシア、インドなどに飛び火している。

 この18年間は、活動を中国に根づかせることに使ってきた。外国人である韓国人や日本人が始めた活動を中国人が「自分事」として行うようになり、それを運営する組織、法人、代表、資金を現地化する試みだった。その現地化の段階は下記のように区切ることができる。

 ① 韓国人と日本人による中国での活動開始(2001年~2002年)
 ② 現地学生の活動参画(2003年)
 ③ 活動団体(JIA)の設立(2004年)
 ④ 活動主体の現地化と活動地域の拡大(2005年~2007年)
 ⑤ 活動の組織化と法人登録(2008年~2012年)
 ⑥ 活動と組織の発展、資金調達の多様化(2013年~2016年)
 ⑦ 組織代表者の現地化(2016年~2018年)
 ⑧ 組織力強化(組織力での資金調達、各地区委員会の各地区での法人登録)(2019年~)

 僕は、このような活動の記録やその間考えてきたこと、感じたことをきちんとこのブログに残してこなかった。
 今、過去の資料をひっくり返しながら、ここに書き加えている。
 そして、その過程が、World as One Family by Work Campの第二章への道を指し示すのではないかと期待している。

★★★

2003年7月1-6日

2003年7月1日

香港とタバコ

最近1箱4元(60円)の中国タバコ・「紅梅」(ホンメイ)を愛煙している。

広州から直通電車で香港の九龍に着く。駅ビルを出ると、東京のような街並みが広がる。まずはタバコを吸おう。地図を広げてホテルを探しながらホッと煙を吐く。

携帯灰皿をなくして以来、私はタバコをポイ捨てする中国の習慣に徐々に染まってきている。ただ、何となく後ろめたい。捨てる前に道を見てしまう。今日も下を見ると、ここ香港の道には吸殻が落ちていない。私は吸殻を持ったままバス停へと向かった。

と、目にとまったのは、罰金1000香港ドル(約1万6000円)という看板だ。タバコのポイ捨てを初め、ガム、ゴミと何でも道に放り投げれば1000ドルも同時に投げ出すことになる。

予約済みのホテルがある油麻地あたりでバスを降り、タバコを吸う。最後の1本だ。キョロキョロしながら道を歩いていると、キオスクのような店にマルボロが置いてある。旧友に会ったような懐かしさを覚え、手に取る。

「22(香港)ドル(約352円)だ」。

店のおっちゃんはさらりと言う。

「22ドル!?たけー!ま、しょうがねぇか」。

30ドル出すと、おっちゃんは言う、

「32ドルだ」。

私の聞き間違いだった。確かに値札には32ドルとある。約512円だ。最も安いのは中国産のタバコだが、それでも20香港ドル(約320円)だ。中国から持ち込める安タバコは5パックまでだという。

さらに香港のタバコはパックの3分の1程を健康に対する警告が占めている。せっかくのデザインが台無しだ。この警告にはいくつかの種類があり、肺炎バージョンや心臓病バージョンがある。政府はタバコを吸わせまいと必死なようだ。

孤独

私は日本にいるとき、ひとりでいるのが好きだった。ひとりで音楽を聴きながらタバコを吸い、しょうもないことをボーっと考えるのが大好きだった。

今は違う。ホテルに独り。久々に飲むウイスキーもおいしくない。私は人とのつながりを求めて止まない。

2003年7月2日

ビザ更新

1000香港ドル(約1万6000円)がビザ更新のために飛んだ。1年間のマルチビザだ。FIWC関東委員会の中国キャンプ駐在員の任期は今年の4月から1年だが、このビザはそれ以上の滞在を許可している。つまり、私は今後もこの仕事を続ける気で満々というわけだ。あとは、経済的な支援をどこまで受けられるかにかかっている。

インキンタムシとリンホウの医療

お食事中の方々、大変申し訳ございません。私はここ何週間かひどいインキンタムシに悩まされておりました。リンホウの蘇村長に相談すると、塗り薬を2本くれました。ところが、これが効かないんです。どんどんひどくなっていくんです。このかゆみは痛みを伴うようになり、すべてに対する集中力が無くなってきました。

(このままではまずい…)。

危機感を覚えた私は、昨日、勇気を振り絞って広州の大きな薬局に行きました。辞書で「インキンタムシ」を引くと、「腹股溝癬」とあったので、それをそのまま店のお姉ちゃんに見せました。お姉ちゃんは静かに1本の塗り薬を出してきました。

これが効くんです。あれほどひどかった痒みが、今日、ほとんどなくなりました。あの数週間に渡る苦しみはなんだったのでしょう。

「あんたアホか。そんな恥をさらして何を言いたいんだ」。

リンホウの医療水準の低さがこの例から分かると思うので、あえてこんなことを書きました。リンホウの人々は、あのダメな薬を使っているんです。リンホウの人がインキンタムシかどうかは知りませんが、一般的な皮膚の炎症に対してあの薬を使っているようです。効きません、あれは。リンホウの医療水準を改めて改善したいと思いました。

2003年7月3日

リンホウに看護士が

香港の看護士・ファニーと、脳腫瘍の手術後のリハビリに精を出すグレイスに会う。リンホウに来て村人の傷を治療してもらうよう頼むためだ。彼女が属しているMMCというキリスト教系のボランティア団体は、HANDAの要請に応じて中国のハンセン病村で治療を行っている。両団体との調整がつけば、ファニーはリンホウに来ることができるという。

健康診断の中身

6月30日に書いた「健康診断」について、ファニーに相談してみる。彼女曰く、健康診断は年に1度でよいそうだ。その診断項目は、体温、血圧、眼の色、口臭、顔色、尿検査、お腹の触診、呼吸の状態など、村で実施できるものばかりだ。体温と血圧によって大体の問題は発見できるという。これをボランティアの医師が行ってくれればよいのだが…。

1つの村での年間医療費の概算

1つの村で1年間にかかる医療費をファニーに概算してもらう。

「標準的な薬が20~30(約300~450円)元、脳検査が1000元(約1万5000円)、血液検査が100元(約1500円)以上だから…。13人で1万元(約15万円)くらいでいいわね」。

ただし、この額に手術費は含まれていない。保険医療などは考えられない中国では手術が異常に高い。1回の手術で1~2万元(約15~30万円)は覚悟しなければならない。

中国のハンセン病の状況

現在の中国のハンセン病医療を巡る状況は、新患患者よりも快復者の方が難しいという。

「新患はMDT(多剤併用治療)で在宅治療するから問題ないの。でも快復者たちの後遺症のケアはほとんどされていないから、そっちの方が問題が大きいわ。1980年代まで薬が外国から入ってこなかったから後遺症が重いのよね」。

確かに、中国の快復者の多くは、ひどい後遺症を持っている。ケアはほとんどされていない。

2003年7月4日

香港企業の支援

父の仕事の関係で香港で会社を経営する人に会うことができた。彼女は学生のネットワークをつくるという計画に理解を示してくれた。金銭的な支援もしてくれそうだ。ただ、そのためには私が詳細な計画を彼女に伝えなければならない。

広州へ戻る

昼、タバコが切れた。しかし1箱に500円以上も払えない。もう1晩香港に滞在する予定だったが、日本並みかそれ以上の香港の物価に耐え切れず、逃げ出すことにした。

16時、広州に着いた。まずタバコを買う。紅梅を指差し、10元(約150円)札を出すと5元(約75円)が返ってくる。懐かしい中国のボッタクリが始まった。

「紅梅は4元(約60円)じゃん」。

タバコ屋のオネーチャンは眉毛を動かすと、1元(約15円)硬貨を持ってくる。

暑い。排気ガスがスゴイ。久しぶりの中国だ。吸い終わったタバコをポーンと放り投げてみた。

2003年7月5日

ワークキャンプ@ヤンカン村

FIWC関西委員会がヤンカン村でのワークキャンプ計画を復活させた。日程は8月5~12日で、トイレをつくりたいという。勢いで私は準備に協力することを約束してしまった。リンホウのキャンプの準備もあるのだが…。

2003年7月6日

花都康復村訪問

総勢20名で広州近郊の花都康復村を訪れ、共同台所の掃除をする。この訪問を企画したのは、『広州トゥディ』誌の記者・ステフォンとHANDAだ。ステフォンはこれまで6つの村で同様の活動をしてきたという。

参加したのはステフォンとその家族、彼の友人、身体の不自由な人を支援する団体の人々、HANDAのマイケルとユキ、そして学生たちだ。学生は、チュアン=ティエンフォン(♀、広東商学院)、ワン=シュアン(♂、培英中学)、リァン=シァオドン(♀、中山大学)、そしてトンビンだ。ティエンフォンと私は昨年の9月に会っていたので、そのコネを使って呼んだ。トンビンを誘ったのはHANDAのユキだ。ワン=シュアンを連れてきたのは、彼の親の英語の先生でもあるステフォンだ。17歳のワン=シュアンは、烏龍茶系美人のシァオドンと一緒にきた。

花都村

キレイだ。舗装された道が花都村まで届いている。29名の村人が住む2階建ての白い建物からは、「村」というよりも「病院」あるいは「老人表」を連想する。1ヶ月に支給される額は1人300元(約4500円)とリンホウの3倍近くだ。

 村人の表情も明るい。年に1度、香港からの学生が日帰りで村を訪れるそうで、集会所の壁にはその時の写真が飾ってある。後遺症のケアもなされているようだ。リンホウのように包帯が目立つ村人は見かけなかった。義足をつけている村人もいる。

掃除

11時、村人が振舞ってくれた大量のライチを集会所で食べながら休憩した後、共同台所の掃除を始める。白いタイルの立派な台所だ。窓がたくさんあり、採光も十分だ。天井から大きな扇風機が吊り下がっている。流しには蛇口が4つある。大きなガスレンジが2つ。その上をしっかりした換気扇が覆う。ハエ取り紙や電動ハエ取り機はリンホウでは考えられないシロモノだ。

 掃除はかなりハードだ。扇風機にはベッタリと油がこびり付いている。換気扇の覆いの汚れもひどい。掃除後、白いタイルの壁は白さを増した。

ワークキャンプの可能性

花都の施設はリンホウと比較にならない程きちんとしている。ただ、精神的な支援は必要なようだ。今日はステフォンや学生たちが来ているので村人は元気だが、普段はそうでもないようだ。ある村人は語った、

 「月300元じゃ足りない。40年前にハンセン病が治って村の外で仕事を探したが、見つからなかった。普段はテレビを見たり、カードゲームや将棋をしたり、お茶を飲んだりしている」。

 13時45分、村を後にする。滞在は3時間ほどだった。ワン=シュアン、シァオドン、ティエンフォンはたくさんの村人と握手している。と、村人の輪から外れたところに、1人のおばあちゃんがいる。

「ツァイチェン」(さよなら)。

握手するとおばあちゃんは手を握ったまま語り始める、

「身体に気をつけてな。また来てな。私は眼が見えないんだけど」。

もっとたくさんの言葉をくれたが、車に乗り込まざるを得ず、トンビンの通訳を介する間がなかった。

この村でもワークキャンプをしたい。ワークのニーズはほとんどないが、村に泊まりこんでおじいちゃん、おばあちゃんと話がしたい。ステフォンの企画にせよ、香港の学生の訪問にせよ、日帰りでは短すぎる。

プレゼン次第

14時過ぎ、参加者全員で遅い昼ご飯を食べる。

「リョータ、キミはどのくらい中国に滞在するんだね」。

大柄で白いひげを生やしたステフォンに訊かれ、私は1年だと答える。

「1年?留学生か?」

彼は、私の計画―広東省に学生によるハンセン病支援ネットワークをつくる―を聴くと、資金源確保の重要性を説く、

「企業訪問して資金を集めるのは、今からでもできる。ネットワークができ始めてある程度の影響力を持つのを待つ必要なんてない。きちんとしたプレゼンをして企業を納得させればいいんだ。写真や地図、グラフを使い、広東省全体のハンセン病の村の様子を明確に具体的に示せばいい。その上で、綿密な計画とそれに必要な予算を提示するんだ。ただ『お金をください』では企業は動かないだろうが、明確なプランを示せば支援してくれるだろう」。