社交ダンス
中国での活動は、国立ハンセン病療養所多磨全生園の入所者・森元美代治の影響で2002年に始まり、今日に至る。
森元はこの活動を資金的に支えるだけでなく、自ら何度も中国のハンセン病快復村に足を運び、身をもって快復者や日中の若者たちを励ました。
森元は長年多磨全生園の外で暮らしてきた。
しかし、脳梗塞と大腿骨骨折を経て、現在は多磨全生園内の介護付きの部屋に住んでいる。
一年以上ぶりにあう森元は、僕が入って来たことに気づくとベッドから身を起こそうとするが、なかなか起き上がれない。
何とかベッドの端に座ると、その身体は以前より一回り小さくなっていた。
が、元気だ 笑
今や昔の話を一通り2人で一気に話しまくる。
ふと気づいたテレビの画面には、今時珍しい、画質が非常に悪い映像が流れている。
「これ、おれだよ」。
スーツ姿で颯爽と社交ダンスを踊る紳士が、森元だった。
まだらい予防法があった1982年、多磨全生園では、社交ダンスによって療養所と外の世界との行き来が生み出されていたという。
きっかけは、療養所の職員の甥が社交ダンスのプロダンサーだったこと。その人が講師となり、療養所のホールでダンスを教えることになった。
ダンスを習うため、療養所入所者や職員がホールに30人ほど集まった。
ダンスの運動量は森元にとってちょうどよく、視力が弱いとできない球技に比べ、ダンスでは視力があまり問題にならなかった。
かつて柊の垣根を潜って予備校に通い、慶応大学に合格した森元は、持ち前の集中力を発揮し、熱心にダンスを習った。
男性ダンサーが不足していた上に、上達の早い森元は「引っ張りだこだった笑」という。
次第に療養所の外からもダンスを習いに来る人が増えてきた。
森元はダンスを10年続けたが、やがてらい予防法廃止運動が忙しくなり、森元はダンスに関わる時間がなくなっていく。
「ビデオ撮っておいてよかったね。当時は随分と軽快に動けただろ 笑 これCDに焼きたいね。療養所の中でも見たい人がたくさんいるから、どこでも再生できるようにしたいんだ」。
不思議なことに、社交ダンスをしていた頃は相当激しく動いたのに、足の裏に傷ができなかったが、ダンスをやめて運動に走り回るようになると傷ができ始めたという。