蘇文秀
私は誰かを好きになると、「猪突盲進」する。勝手にその人を理想化する。そして、現実が見え始めると、彼女から逃げ出す。
私とリンホウの関係もそれに似ているのではないか。そう友人からの手紙で指摘された。しかし、リンホウと別れる― つまり帰国することはできない。まだ付き合い始めて間もない。いいところもあれば、悪いところもあるだろう。そんな風に言い聞かせて始まった一日。
4万5000円の携帯電話
建設会社の社長・蘇壮祥さんが来る。彼には去年の11月と今年の3月のワークキャンプでの建設をお願いした。
蘇村長のうちで3人でお茶を飲む。と、彼が取り出した携帯電話が私のと同じ機種だ。私が中古品を300元(約4500円)で買ったと知ると、彼はしきりに重さを比べたり、機能をチェックし始める。というのも、彼は3年前、同じ携帯電話を3000元(約4万5000円)で買ったからだ。現在、この機種は800元(約1万2000円)で売られているという。
不可解な診察
町の病院から帰ってきた許さんのところにライチを持ってお見舞いに行く。
「これ、何が書いてあるのか分かんないんだよね…。あんた分かるか」。
そうぼやきながら彼は検査結果の紙片を見せてくれる。それには尿検査の結果を示すアルファベットが並ぶ。PH6.0、NIT-、GLU-、…。わからない。血尿が出たことだけは教えてもらったそうだ。ただ、尿検査のみなので腹痛の原因は不明だという。更なる検査を受けるためには、多額のお金が必要だ。
「本当は注射でも打ってもらいたかったんだけど、1本5元(約75円)もするからやめといたよ」。
そう筆談する許さんは、今回の検査費と薬代の56元(約840円)を自分で支払った。
「残聯(5月18日参照)からの慰問金が残っていたから生活はできるよ」。
許さんはライチを2粒だけ受け取る。
「ウンコがこの10日で1回しか出ないんだよね」。
ライチの食べ過ぎはおなかに悪いので要らないそうだ。食事も少量しか食べないという。
通院は今回の1回でおしまいだ。後は服薬で治す。
蘇村長の略歴
村長が書いた略歴の翻訳を終えた。以下に掲載する。
*
蘇文秀は1927年、広東省潮州市潮安県鶴隴村に生まれ、カトリックを信仰した。7歳で父を亡くし、兄弟は4人、一家は無一文だった。8歳のとき母と共に潮州城に流れ着き、教会の一室に住んだ。私立小学校長の慈心と哀れみにより、母は教職員の衣食を世話する職を得、小学校2年の私は無料で授業を受けることができた。
1938年11歳のとき、転んで左手を折った。医者はなく、障害を残した。当時は戦争中だった。潮州は陥落し、1943年まで飢饉が続いた。毎朝早くに市場に行き、茶葉の破片やウリのツルを拾い集め、あるいは田んぼで野草を採り、飢えをしのぎ、10キロ離れたところで草を刈り、燃料とした。実に哀れむべきことだ。如何ともしがたく、他人にヌカやマメ―これは家畜の飼料だ―を乞い、食事をとった。悲哀的だ。天に祝福を叫んでも、奇跡は起こらなかった。
1945年、母と私はウリ売りと共に毎朝6時、10キロ、20キロ歩き、粦渓や仙田から官塘村などでウリを買い、市内で売り、その日その日の生活費を得た。1947年、小学校長の同情により、小学校の用務員として働くことができ、毎月5キロ余りの米を得た。
1949年、顔に斑紋が現れた。毛沢東の解放時代には「ハンセン病」だと断定された。不治の病と言い伝えられていた病だ。当時は食べ物もなければ、医者も薬もなかった。母と子は激しく泣き叫び、涙した。運命はこの如く辛いものかと…。生きるを得ず、死ぬも能わず。終日涙をもって面を洗い、枕を濡らした。人に会うのを恐れた。
1952年、学校の用務員を辞した。学生に伝染する可能性があるというのがその理由だ。時は政府の宣伝運動中だった。1957年7月、家族と別れ、隔離され、治療が始まった。差別、侮辱、偏見のため、母と別れた。これが永遠の別れとなった。独り楊厝村(金名鎮)の山地に到った。山々には墓がたくさんあった。
収容は27名、5棟の住居で始まった。私に割り当てられた作業は養豚労働だった。1959年に到るころには、この山は政府幹部の保養地となることが決まり、1960年すべてがリンホウ医院に移された。当時すでに110名以上が隔離収容されていた。逐年村人は増え、多いときは300名となった。老いたる者は70歳以上、幼きものは13歳の少年。少女もいた。
政府は1960年代、楊理合夫妻および袁、魏、秦、陳など10人前後の医師を派遣し、この地に駐在させた。毎日診察、検査、服薬を行い、一年余り後にカナダ人医師・馬海徳が来たのを最後に、医師たちは次第に召還されていった。
私は1967年7月の検査ですでに快復していた。しかしこの地にとどまり、付託されていた養豚労働を行い、また記工員(農業生産単位で労働点数をつける仕事)としても働いていた。1969年、出納員兼生産保管員として働かねばならなくなり、仕事が忙しくなった。他人に教えを請わなければ分からないことが多かった。1970年代になると治癒し、退院する者が多くなった。重傷者には種々の病で死ぬ者もいた。収容される者は少なかった。
1978年、右足に潰瘍が発生し、治療できる医者はいなかった。後に医師は薬がなく不治であると診断した。潮州医院に行ってレントゲンを撮ると、皮膚ガンだとされた。重く見たリンホウ医院は外科医5人を請い、1979年彼らは村を訪れ私の足を切断した。この時の心痛はこの世に2つと無いものであり、その悲哀は言葉にすることができないものだった。1本の足、片方の手だけが残る。これで何の益があるだろうか。
1981年、リンホウ医院の再三の要請に折れ、私は出納員の職に復帰した。当時、弟が1人、死んだ。雪の上で霜に覆われてだ。苦痛の中、いかんともしがたく再び出納員となり、今に至る。毎月の給与は現在、20元ないし35元。生活に必要なことは自分でする。ハァ。我が運命この如し、一言をもって表し難し。
当時、村民は70~80名。後、多くの者が続々と退院し、死亡は少ない。党と政府は1980年代、毎年1月末の1週間を「ハンセン病の日」と定めた。各級政府はこれを十分重視・配慮し、精神的、現金物質的な慰問を行っている。その他の慈善団体も米や油などの物資を持って慰問に訪れる。村の者は感動と温かみを得てもいる。現在、村人13名全員が快復者である。
(この後は私信が続くので、割愛します。)
*
翻訳を仕上げる前、村長の部屋に行き、分からない部分を説明してもらった。ここには書かれていない裏話をしてくれた。
「野草はな、酸っぱいんだ。食べると腹痛を起こすぞ」。
「小学校の用務員をやっているときは『あれやれ、これやれ』とこき使われた。一生懸命たくさん働くと給料が上がったんだ」。
「リンホウには当時、大食堂があってな。メシはそこで食べたんだ」。
「出納員の仕事は大変だった。毎晩遅くまで働いたもんだ。居眠りすることもよくあったな。医院の職員が来ても気づかず寝てたんだ」。
「村人が多いときは会議を開いて村のことを決めたもんだ」。
「昔は人が多くてな…。診察時間は短いものだった。カナダ人の医者は太った大男だった。彼が1967年、快復したと診断してくれたんだ。快復したとき、家に帰ろうと思ったんだ。それが医院の職員に引き止められてな…。出納員にならざるを得なかったんだ」。
「右足を切断する少し前、水浴びの時にいつも大量の血が流れてな…。当時は忙しくて治療に専念することができず、悪化したんだ。1年間、漢方薬を飲んだんだが効き目がなかった。この漢方薬はな、老蔡(インチン)が毎晩、煮てくれたんだ。1年間、毎晩だぞ。彼女の心は最高だ」。
「2度、自殺しようと思ったんだ」。
自殺。
分からない部分の説明を受けるとき、蘇村長に当時の悲しみを思い出させてしまうことが辛かった。これを書いてもらった時点で苦しみの記憶を甦らせてしまった上に、再びそれをほじくり返すのが痛かった。
自殺。
この単語が出たとき、その想いは頂点に達した。私は村長から顔をそらし、タバコに火をつけた。
「三度の飯さえ食えればそれでいい」。
村長は以前、手紙にそう書いた。そんな彼に過去のことを思い出させるのは罪なことかもしれない。しかし、私はここリンホウに「蘇文秀」がいることを多くの人々に知ってもらいたい。半ベソをかきながらボールペンを動かしていく、
「村長の略歴を読み、話を聴き、私自身が抱える問題の小ささを改めて認識しました。感謝します。村長が自殺しなかったことを嬉しく思います。
私たち若年者は、本当の困難というものを知りません。そのため、『人と人とのつながり』の大切さを忘れ、それを破壊する愚行を繰り返します。
村長はいつも『おれは年を取った。後は死ぬだけだ』と言いますね。でも、年を重ねた人は、尻の青い者が知りえない経験を持っています。高齢の人々は年若い者たちを導くことができます。年若い者が経験をもって同年代の人々を教えることはできません。
当然、過去のことを思い出すのは辛いことでしょう。それを話したいとは思わないでしょう。それでも、私は村長の体験を多くの人に知ってもらわなければいけないと思います。これは、村長が遭遇した苦難を徒労に終わらせないためでもあります。村長の過去の辛苦が、若い人たちの考え方を変えるんです」。
ボールペンの先を追うようにして読んでいた村長は言う、
「明日、話そう」。
今日のイタダキモノ
インチン・インイン・若深さん:昼飯(チャーハン、ゆで卵、ホルモン)、夕飯(レバーねぎ炒め、ゆで卵、ビール)
許さん:魚の燻製