広東省東部快復村調査旅行
2003年7月9日
広東省康復村調査の旅
今日から少なくとも10日間、HANDAの林志明さんと欧鏡剣さんと3人で、広東省のハンセン病康復村を周る。村の場所、人口、傷の状態などの基本データを収集し、HANDA指定の表に書き込むことが目的だ。訪問予定地は、汕尾市、揚陽市、汕頭(スワトウ)市、潮州市、梅州市にある13の村だ。
1コ目の村のデータ
医院名称:海豊皮防院
電話:0660-6403123
設立:1958年
郵便番号:516400
院長:彭逢信
村長:欣栄村
村内電話:0660-6413046
住所:広東省汕尾市海豊県城東鎮東園郷
村人数:56名(過去最大225名)
平均年齢:63歳
生活費(月/人):200元(約3000円)
医療費:50元(約750円)
医師:?
結婚状況:8組
出発―イノシシな林さん
6時20分、HANDAゲストハウスの呼び鈴が鳴る
「ハロー、ハロー!」
林さんだ。6時半の約束だったのだが。
7時、269番のバスでHANDAの裏のバス停から出発する。まずは汕尾市を目指す。バスを乗り継いで8時45分に長距離高速バスのバス停(天河車站)に着く。ところが。林さん、汕尾行きのバスは9時半までないじゃないですか…。
汕尾行きのバスのバスに乗り込むと、乗務員が健康診断表を提出するように言う。SARSの流行以来、長距離バスに乗るときはこの診断表を出さなければいけないのだが、形式的なものだ。
「問題ない、問題ない」。
林さんはそれで押し切った。
陽気な林さん
12時40分、汕尾に到着。
「メシ、メシ、メシ」。
林さんは日本語で連発する。食堂に入り、ご飯が来ると林さんは日本語で言う、
「ありがと、ありがと!」
ここ汕尾市は潮州市の隣だ。近くのテーブルのお兄ちゃんが「マイ、マイ、マイ」と言っているのが聞こえる。久しぶりに潮州語圏に入った。
13時10分に乗ったバスは20分後、海豊のバスターミナルに入っていく。
手探りの旅
「この海豊皮防院はどこだ?知ってるか?」
林さんはバスの運転手に尋ねる。隔離されていた村の存在を知る人は少ない。電話番号と住所以外は情報がまったくない旅だ。駅前の三輪オートバイの運転手に聞く。彼は少し場所がわかるようだ。
13時50分、かなり走った三輪オートバイは止まり、運転手は病院に電話をかける。
「なんだよ、行き過ぎちまったぜ」。
日差しが真夏のように強い。三輪オートバイの屋根を通り抜けて暑さが伝わってくるかのようだ。3人でぎゅうぎゅうに座っているので、なおさらだ。ふと膝に林さんの硬い手を感じたかと思うと、彼は笑う、
「辛苦、辛苦。エッハッハッハッハ…」(おつかれ、おつかれ)。
彼の気遣いに疲れが少し引く。
林さんの力
14時ごろ、比較的大きな道を走っていると、道に面したところにキレイ目の建物が現れる。「海豊県皮膚病防治医院」とある。
「村はここから2キロ離れたところにある」。
医院の職員は堅い表情で語る。欧さんはHANDAの紹介文やHANDA通信を職員に渡し、訪問の目的を伝える。医院の職員は欧さんから受け取った表に村の基本データを書き入れていく。今回の旅では、この表で各村のデータを集めることが目的だ。生活費は1人あたり1ヶ月200元(約3000円)。医療費も50元(約750円)が支給される。合計するとリンホウの2倍以上だ。村人は56名で、傷を持っている人は85%だそうだ。
林さんは彼に書き方を教えていく。林さんは人を和ませる力を持っている。医院の職員たちからは笑い声が出始めた。お茶が出てくる。医院の職員たちはきちんと林さんの話しを聴く。
職員にもらったミネラルウォーターを持って村に出発だ。ここに来たときの三輪オートバイが待っていてくれたので、彼の運転で行く。医院の職員もついてきた。
おばあちゃん
舗装された道を外れ、山道を行く。ヤンカン村よりはマシだが、三輪オートバイの揺れは激しい。
村に入ってまず目に入ったのは、大きな木2・3本の下で涼む、たくさんの村人だ。村長さんがすぐに寄ってきて、握手する。欧さんはとても親しげにしっかりと両手で握手した。
1人のおばあちゃんが、かなり離れたところで1人涼んでいる。
村には6棟の住居がまとまって建っている。そのうちの3棟は“E”の字型につながっている。家々には赤やオレンジ色のお札が貼ってあり、建物自体もきれいだ。奥には貯水タンク、トイレもある。水道も各建物に大体2つずつある。
「ここでワークキャンプできますかね?やるとしたら何をつくりましょうか?」
「村までの道を舗装してくれないか。他の仕事はない」。
水道、トイレ、家屋の方が優先順位が高い。とりあえず、ここでのキャンプは見送るべきか。
村での滞在は1時間弱だった。村人たちにサヨナラを言って三輪オートバイに向かおうとする。が、あの独りのおばあちゃんが気になり、彼女のところに言ってみる。
「モウ…、モウ…、…」(ない…、ない…、…)
おばあちゃんは何かがないと繰り返し言う。ささやくような小さな声だ。足が痛いとも訴える。
三輪オートバイでバスターミナルに戻りながら思った。この村は村人が明るく、比較的キレイな施設でワークキャンプの需要はないようだ。しかし、あのおばあちゃんだけはどうしても気になる。
やっぱりイノシシ
16時5分、海豊のバスターミナルから陸豊へ向かう。16時50分に陸豊につく。
「今日はうまくいったな」。
村が見つからないこともある調査旅行の初日は、首尾よく村の基本データを得ることができた。今日はここに泊まって明日陸豊の村に行こうと欧さんは言う。しかし。
「さあ、陸豊の村に行こう」。
林さんはやる気満々だ。
17時20分、三輪オートバイで陸豊にあるという「光地防治医院」につく。街中の普通の病院のようだ。17時を回っているためか、閉まっている。電話をかけて見ると、電話番号が間違っていた。
17時35分、皮膚防治医院という他の病院を見つけたのでそこを訪れる。
「うちは関係ない」。
HANDAの書類を見せる欧さんにそこの職員は言う。激しい口調だ。三輪オートバイに戻る。
なぜかこのあたりは病院が多い。「慢性病防治站」という病院をみつけ、そこの事務所にいく。
「明日の8時半か9時にまた来てくれ。一緒に村に行こう」。
どうやらこの光地医院に村は所属しているようだ。そこの職員の携帯電話を教えてもらった。結構適当にあしらわれた感だが、林さんは明るく言う、
「そうかそうか。ありがとう。バイバーイ、バイバーイ!」
スタスタ彼は歩いていく。明日の朝を待ち切れない彼は、光地医院に向かいながらその職員の携帯電話に電話してみる。出ない。と、偶然さっきの職員に道端で会った。
「明日行こうって言ってるじゃないですか。仕方ないですね。院長を呼んでみましょう。慢性病防治站で待っていてください」。
林さんの熱意と精力。彼はちょっと位のことではへこたれず、笑いを忘れない。誰かが言ったコトバをふと思い出す、
「いつもクルマトラジロウを忘れずに」。
慢性病防治站に戻る2人の力強い足取りに、私は勇気づけられる。
院長が18時51分にきた。みんなで夕飯を食べに行く。彼はわざわざ遠いところまで車を走らせ、海が見えるレストランに連れて行ってくれる。エビ、カニ、サカナ…、そしてビール。労働の後のビールはうまい。