猪突猛進-原田燎太郎

World as One Family by Work Camp

このブログに書いてあること

 2002年から現在に至るまで、僕らは中国華南地方の6つの省にあるハンセン病快復村60ヶ所で活動し、参加者は延べ2万人以上となった。活動はインドネシア、インドなどに飛び火している。

 この18年間は、活動を中国に根づかせることに使ってきた。外国人である韓国人や日本人が始めた活動を中国人が「自分事」として行うようになり、それを運営する組織、法人、代表、資金を現地化する試みだった。その現地化の段階は下記のように区切ることができる。

 ① 韓国人と日本人による中国での活動開始(2001年~2002年)
 ② 現地学生の活動参画(2003年)
 ③ 活動団体(JIA)の設立(2004年)
 ④ 活動主体の現地化と活動地域の拡大(2005年~2007年)
 ⑤ 活動の組織化と法人登録(2008年~2012年)
 ⑥ 活動と組織の発展、資金調達の多様化(2013年~2016年)
 ⑦ 組織代表者の現地化(2016年~2018年)
 ⑧ 組織力強化(組織力での資金調達、各地区委員会の各地区での法人登録)(2019年~)

 僕は、このような活動の記録やその間考えてきたこと、感じたことをきちんとこのブログに残してこなかった。
 今、過去の資料をひっくり返しながら、ここに書き加えている。
 そして、その過程が、World as One Family by Work Campの第二章への道を指し示すのではないかと期待している。

★★★

考えること

2002年2月以来の、僕の中国での歩みとは、何だったのか。
 
僕のブログは、その題名を「猪突盲進」という。
思い悩む前に直感に従って突き進めという、行動を促す言葉だった。
いつしか、この言葉は、考えることから逃げるためのものになっていた。
 
Peace, not by words, but deeds
Joy in Action
心の英雄の叫びに従え
 
これらの言葉もまた、自分が頭を使わないことを正当化するためのものになっていた。
 
まず自分を人間として見ること、そして他人を人間として見ること
自分の直感を大切に、想いに従って生きること
暗いことを明るくすること
 
これが、過去18年間だったのだと考える。
 
間違っているかもしれない。
修正するかもしれない。
それでも、いい。
いま、僕は、過去をこのように意味づけ、そして、未来へ向かって進んでいく。
 
2020年の漢字は、「猛」とする。
「猪突盲進」は2019年を以って、卒業だ。

平和運動としてのワークキャンプ

FIWC関東委員会は2002年以来中国のハンセン病快復村でワークキャンプを行っている。中国人が中国の村で活動を継続的に行うため、2004年には「家」と書いて[jia]と読むNPO広東省広州にて設立した。現在では広東省広西壮族自治区湖南省湖北省海南省ハンセン病快復村約50ヶ所でワークキャンプを開催している。

この17年の間に活動を組織・参加したキャンパーは延べ2万人、会費を納めているOG/OBは1200人いる。2015年12月からは「家」の事務局長が中国人の顔循芳(シャオヤオ)となった。今年度からは組織の資金調達の役割もOG/OBに任せる方針が採られている。活動を中国に根付ける仕事は最終段階に来た。

 

今夏も日中合ワークキャンプが中国のハンセン病快復村で開催された。FIWC東海委員会は来ることができなかったが、九州委員会と関東委員会から日本人学生が参加した。毎回、日本からくる学生たちには広州で会い、活動の歴史について話すことにしている。

今回、その準備をしていて、ふと気になったことがある。1949年に開催された「『ヒロシマの家』建設ワークキャンプ」とは何なのか。

いつもはさらりと触れるだけだった。原爆を落とした国のフロイド=シュモーというクエーカー教徒がワークキャンプを開催し、その活動に日本人学生が参加するようになった、と。しかし、具体的なことは何も知らない。フロイド=シュモーはどんな人間だったのか。どんな想いで日本にやってきたのか。

以前、FIWC関西委員会の柳川義雄から『ヒロシマの家-フロイド・シュモーと仲間たち』という「シュモーに学ぶ会」がつくった本をもらっていたことを思い出す。

読めば読むほど、引き込まれていく。そして、この言葉に出逢う―

 

HOUSES FOR HIROSHIMA

WORK CAMP PROJECT

1. To build understanding –
2. By building houses –
3. That there may be peace
祈平和

 

ヒロシマの家建設キャンプ中、この言葉が板に書かれて掲げられていたという。

そうだった。そもそも、我々の活動は、平和運動だった。

第一次世界大戦後、ベルダンで開催された世界初のワークキャンプは、「Peace, not by words, but deeds」だった。「FIWC関西の慣習法」(1972年)を改めて読み返すと、今村忠生はワークキャンプを「国家を超える平和の自願軍」としている。2001年に中国にワークキャンプをもたらしたカン=サンミン(姜相敏、韓国ピースキャンプ)に活動の目的を訊いたときも、彼は「World peace」と独特な笑顔と共に語った。

中国での活動の系譜には、これらの先輩たちがいる。そして、この活動が、インドネシア、インド、ベトナムに伝わり、現地の人々の間に根差している。インドネシアではFIWC関西委員会の高島雄太がJALANを設立。インドではついにインド人大学生の活動参加が実現した。

 

2019年9月5日、ある国有企業の副総裁と青島で出あう。1961年生まれの彼は抗日戦争を戦った父を持つ、剛毅な紳士だ。

「お前たちの中国での活動は、民族感情に変化をもたらしている」。

 

むすび便り掲載記事

 

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ヒロシマの家-フロイド・シュモーと仲間たち』(シュモーに学ぶ会)より

 

社交ダンス

中国での活動は、国立ハンセン病療養所多磨全生園の入所者・森元美代治の影響で2002年に始まり、今日に至る。

森元はこの活動を資金的に支えるだけでなく、自ら何度も中国のハンセン病快復村に足を運び、身をもって快復者や日中の若者たちを励ました。

 

森元は長年多磨全生園の外で暮らしてきた。

しかし、脳梗塞と大腿骨骨折を経て、現在は多磨全生園内の介護付きの部屋に住んでいる。

一年以上ぶりにあう森元は、僕が入って来たことに気づくとベッドから身を起こそうとするが、なかなか起き上がれない。

何とかベッドの端に座ると、その身体は以前より一回り小さくなっていた。

 

が、元気だ 笑

今や昔の話を一通り2人で一気に話しまくる。

 

ふと気づいたテレビの画面には、今時珍しい、画質が非常に悪い映像が流れている。

「これ、おれだよ」。

スーツ姿で颯爽と社交ダンスを踊る紳士が、森元だった。

まだらい予防法があった1982年、多磨全生園では、社交ダンスによって療養所と外の世界との行き来が生み出されていたという。

きっかけは、療養所の職員の甥が社交ダンスのプロダンサーだったこと。その人が講師となり、療養所のホールでダンスを教えることになった。

ダンスを習うため、療養所入所者や職員がホールに30人ほど集まった。

ダンスの運動量は森元にとってちょうどよく、視力が弱いとできない球技に比べ、ダンスでは視力があまり問題にならなかった。

かつて柊の垣根を潜って予備校に通い、慶応大学に合格した森元は、持ち前の集中力を発揮し、熱心にダンスを習った。

男性ダンサーが不足していた上に、上達の早い森元は「引っ張りだこだった笑」という。

次第に療養所の外からもダンスを習いに来る人が増えてきた。

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森元はダンスを10年続けたが、やがてらい予防法廃止運動が忙しくなり、森元はダンスに関わる時間がなくなっていく。

「ビデオ撮っておいてよかったね。当時は随分と軽快に動けただろ 笑 これCDに焼きたいね。療養所の中でも見たい人がたくさんいるから、どこでも再生できるようにしたいんだ」。

 

不思議なことに、社交ダンスをしていた頃は相当激しく動いたのに、足の裏に傷ができなかったが、ダンスをやめて運動に走り回るようになると傷ができ始めたという。

 

2019年、修

2003年以来、毎年漢字一字で目標を立てている。
16個の漢字を並べてみると、各年の出来事が浮かんでくる。

2003年【成】
リンホウ村に住みむことを決意。地元の学生に活動を根付ける。「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人の儚さ」より。

2004年【掘】
リンホウ村に住みながら他の村にも活動を拡大してきた。ただ、急激に広がり過ぎた感があり、各村での活動を深めなければならない。

2005年【開】
2004年8月にJIAを設立し、代表になる。しかし、リーダーとなるためには“Open your mind”と先輩にものすごい笑顔で言われる。

2006年【締】
笹川記念保健協力財団からの支援も得、中国人がワークキャンプを自主的に行い始め、結婚もしてという状況下、舞い上がらずに締めていく。

2007年【飛】
広州、昆明に加え、南寧に3つ目の事務所を開設。ロックフェラー兄弟財団の支援も得られる見込み。貴州省へも進出したい。今年は飛躍の年だ。

2008年【翔】
先輩との活動の方向性のちがいのため、2007年は飛躍できなかった。2008年はそれを克服し、今度こそ翔けてやろう。

2009年【忠】
先輩と組織を真っ二つに分け、運営を完全に切り離す。活動を辞めようかと思うが、リンホウ村の蘇振権に「忠」を教えられ、続けることにする。

2010年【傳】
活動も組織も大きくなった。しかし、当然知っているべきことを知らない人が時々いる。伝えるべきことをきちんと伝えなければ。

2011年【愛】
僕が楽しい→あなたも楽しい→みんな楽しいという循環を生みたい。周りの人を、家族を、そして自分を大切にしなければならない。
2012年【学】
国際情勢を知らない。中国語が上達しない。英語は忘れつつある。マネジメントも相変わらずダメ。しっかり学ばねば。

2013年【鴨】
JIAの法人登録はできたが、ロックフェラー兄弟財団の支援がなくなった。鴨は余裕で泳いでいるように見えるが、実は水面下で必死に水を掻いているという。必死に資金を集めねば。

2014年【仕】
資金不足が続き、資金集めに走り回る日々。
「仕合せ」とは何か。人と人とが仕合せ(出あい)、仕え合うと、仕合せになる。

2015年【交】
引き続き、資金集めに走り回る日々。
相手や物事との関わり方は一方通行ではなく、流れ合い、響き合い、感じ合うこと。

2016年【蘇】
資金不足はひとまず落ち着く。JIAの中国人代表が誕生した。かつての、コツコツ努力できる自分に戻りたい。

2017年【信】
批判され続け、自信が全くなくなってしまった。まずは、自分を信じられるようになりたい。

 

2018年は【衝】(中国語では“冲”)だった。
この一年で学んだことは、何を行うにしても、それを自分事として捉え、遂行する決意がなければ、事を成すことはできないということだ。
これを覚悟と呼ぶのだと思う。

この覚悟を持って僕がやりたいことは何か?
さいころから今まで、僕が怒りを感じるときは共通している。
本来ならば自分が所属できるところから、理不尽な原因で排除されるときだ。
いじめやハンセン病差別がそれにあたる。

だから、僕は、それぞれの人が自信と誇りを持って生きられる世界を創るグランドデザイナーになりたい。

そのためには、もっともっとたくさんの仲間が必要。
自分自身、修行が必要。

そこで、2019年の漢字に選んだのが【修】。
まずは体の修行から始める。
体と心は連動しているようで、体が鍛えられると心も強くなっていく。

朝5時に起き、5キロ走る。
その後、バスケ(これは僕の原点)、縄跳び、料理、掃き掃除。
8時からは『孫子』を素読
8時半からe-Leaning。

読書1時間もどこかに入れ込む。

散るもよし…

人に薦めておきながら、さっき自分で読み返したら、自分で涙した文章がこれ:

http://jiaworkcamp.org/jp/article.aspx?newsid=1965&nid=&subnid=

 

その文章の最後に、今年米寿を迎える小牧義美という人が言った言葉がある:

 

「どこに暮らしていても一日は一日。一年は一年。その日一日に悔いがなければ、すべてにおいて悔いはない。これからの人生、悔いが残るような生き方をするくらいなら、死んだ方がマシだ。あのな、人間ていうのはな、人生の決断をしたとき、それが人生の盛りなんだ。それが、しわくちゃの75歳のじいちゃんでも、人生の決断をするとき、それが人間にとっての盛りのときなんだ」

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そうだった…

責められたり、バカにされたり、舐められたり、…。

 

そんな時。

 

「おれってダメだな…はぁ…」と自分を責めるか、

「何?!クソッ!!見返してやる」と思って頑張るか。

 

前者は自分を刺し、嫌いになっていくだけ。

後者はバネのような原動力となる。