曾さんのお母さん
4月8日。リンホウ医院の電話が鳴る。受話器を取った医院の職員は曽さんのうちに走った。
「急いで家に帰れ。お母さんが亡くなったそうだ」。
曽さんは、たまたま遊びに来ていた弟と共に実家に急ぐ。お母さんはベッドに横たわっていた。死んでいる。
「いやあ、あの時は悲しかったなあ…」。
曽さんはそう言って眉間にしわを寄せ、ゆっくりと、大きく、左右に首を振る。お母さんは86歳で死ぬまで仕事をしていた。ときどきリンホウ村に曽さんを訪れることもあったという。
「オフクロはもういないんだ、もういないんだ…」。
フクザツな問題
ジエシャンから携帯電話にメッセージが入る。
「HANDAが大学に提出する書類が何かはまだわからないの。今週は2回も大学に頼んだのに…。いろいろとフクザツな問題があるの。今度村に行ったときに話しましょう」。
大学側は金曜日に回答すると約束していた。この「フクザツな問題」とやらが即、ALAの設立が不可能だということを意味するわけではないらしい。それ以上はわからない。もう5月は半分も残っていない。
隔離
夜、独りで飲む。久しぶりだ。
酔いたい。でも、酔えない。それ以前に、「飲みたい」という欲求がない。そういえば、大好きなジャケットを着たいという気持ち、何か不必要なモノを買いたいという衝動もここリンホウでは感じない。半隔離状態は、あらゆる欲望を弱めるのかもしれない。
いや、1つだけ叫びに似た欲求がある、
「村の外の人に会いたい」。
現在、SARSに過敏に反応しているリンホウ医院は、不必要な外出を控えるようにと言っている。その上、ここ1週間ほど激しい雨が続いているので、自転車で町まで行くのは余程の決心がいる。また村には電話線がまだないので、メールで外部の人と連絡をとることもできない。私はリンホウに半隔離されているようなものだ。
今、私は村人の気持ちにほんの少しだが近づいた気がする。村に家族や学生たちが来たときの村人の喜び様のワケが見えてきた。半隔離されている人々は、外の人とのつながりを欲しているのだろう。
私は、この日記を書くことで外の人とのつながりを持っている気になっている(現時点ではまだ一度も日本に送信できていないが)。携帯電話のメッセージをやり取りすることもできる(70文字しか送受信できない上に大抵は圏外だが)。
一方、村人は自らの意思で家族を始めとする外の人たちとコミュニケーションを取ることができない(2名を除いて)。ひたすら家族や学生が村に来るのを待つのみだ。隔離とは恐ろしいものだ。
そんな村人が外とのつながりを感じるにはどうすればいいか。HANDA通信の投稿欄に文章を書くのはどうだろう。自分の書いたものを多くの人に読んでもらえるのは嬉しいものだ。読者から反響があればさらに良い。ALAの講師として村での活動に加わってもらうことはどうだろう。学生や子どもたちと1つのことを一緒にする。「人と人とのつながり」を感じることができるのではないか。