ドリアン助川
朝、憧れの釜飯を初めて食う。
いつもありがとうの意味を込め、真子と。
が、要は、広州でいつも食べている「煲仔饭」の油少ない版だった。
明日は娘のりんほうの誕生日。
何をプレゼントしようかなと思案しながら高田馬場で下車し、大学まで歩く。
かつての古本屋はどうやらカレー屋かラーメン屋に変わってしまったようだ。
何件か残っていたので、ちょっと安心。
今回はドリアン助川さんのお招きで、早稲田でイベント参加。
それならば、早稲田グッズを娘にプレゼントしようかなと大学の炉ロゴの入ったマフラーを買う。
何となく、これでいいのかな…と思いつつ…
楽屋であうドリアンさんはものすごく落ち着いた人。
イベント開始前、リハーサル前後にいろいろと話す。
ドリアンさんとのトークでは、「なぜこの道を選んだのか」と「その後の葛藤」を話すように言われる。
ドリアンさん曰く、ハンセン病と同じようなことが福島で起こっている。
若者の自殺や老人の孤独死とも中国のハンセン病の活動は通じるのではないかと。
社会から弾かれた若者と定年退職後の老人との出逢いをつなぐ。
ドリアンさんと話していて、中国、ハンセン病、ボランティア、ワークキャンプ、JIA、という不思議な活動が、もしかしたら他へ応用できるのではないかと想い始める。
大隈講堂には何か棲んでいるかも知れない。
イベントが始まる。
第一部はドリアンさんと僕が話すもの。
不思議に、ドリアンさんにいろいろと引き出される。
就活のネタとして初めて中国のハンセン病快復村を訪れたこと。
チンクワンさんの酒のこと。
尾骶骨の怒りのこと。
シャオジュンジュンのこと。
その後の朗読劇がすごかった。
ドリアンさんと中井貴恵さんがピクルスさんのギターを背景に語る。
2年前『あん』の小説と映画をDVDで見たときは、永瀬正敏と自分を重ねて見ていた。
今回はリンホウ村の人々と僕の関係を徳江さんと長瀬やあの女の子と重ねて見ていた。
そして、ずっと、ずっと、ずっと、泣いていた。
ドリアンさんと中井さんのあの魂の込め方は、ものすごかった。
これまで観た、どんな映画よりも、どんな舞台よりも、魂の叫びを感じた。
震撼した。
肚の底から感激した。
こんなに長い間泣いていたことは、これまでなかった。
朗読劇直後、楽屋で、放心状態のドリアンさんを見た。
声をかけられないくらい、ドリアンさんは放心状態だった。
魂を出し切ってしまったような、全部出してしまったような、そんな感覚を受けた。
その後の打ち上げのときのドリアンさんがまたすごかった。
That'sエンターテイナー。
笑わすところで笑わし、紹介すべき人を紹介し、話させるべき人に話させ…
何とも温かい空気がその場を流れまくり、つながるべき人がつながるべくしてつながっていった。
僕もそうあろうと想った。
打ち上げの後、どうしてもドリアンさんが気になって、何を話すでもなく、彼の後ろに付いて歩く。
と、ドリアンさんは「あと30分飲める人、次行きましょう」と言ってくれる。
そこで4人くらい帰り、4人が残る。
なぜあの4人は帰ったのか全く不明 笑。
ドリアンさんと話したくないのかな 笑。
そこで、『あん』を英訳したアリソンさんとかなり話せる。
アリソンさん曰く、ヨーロッパ人はカラスを嫌ってきた。でもカラスはカラスで生きると。
フランスの移民排除でハンセン病に通じるものを感じたと。
そのあたりに、中国のハンセン病快復村での体験を応用できるかも知れない。
『あん』はいろんな出版社に出版を拒絶され続け、ポプラ社の野村さんにやっと出版してもらえたとか。
野村さん曰く、「大人の涙をたくさん見た。ドキュンと胸が跳ね上がる」。
ドリアンさんの提案もあり、もしかしたら野村さんが僕が書いた本を出版してくれるかもしれない。
こんな話を、明日は娘のりんほうにプレンゼントしようかなと想う。
小牧義美講演会
2006年、鹿児島のハンセン病療養所を退所して中国で社会復帰した小牧義美氏が今年米寿を迎える。
その頃、小牧は中国の学生と共にハンセン病快復村を周り活動した。
主に、ハンセン病の後遺症が元でできる足の裏の傷の手当てを行なって歩いた。
2007年、活動中、自身も足に怪我を負い、それが徐々に悪化し、足の切断のために鹿児島に戻る。
以来、糖尿病が悪化し、視力もほとんど失い、耳も遠くなった。
しかし、「燎太郎と村々を歩き回ったあの日々は最高じゃった」と振り返る小牧は、中国を忘れられない。
昨年、桂林の快復村に帰ってきた。
北京で講演会も行った。
その小牧が再び、中国に戻って来る。
今回は広州で講演会を行う。
阪本敦さんと再会
2010年以来、お世話になり続けている阪本敦さんをトヨタ産業技術記念館に訪ねました。
1時間の時間を取ってくださり、昨年一年間の近況や今後の展望をご報告することが出来ました。
JIAの今があるのは阪本さんのおかげです(さもなくばポシャっていました)。
阪本さんは広州にいらっしゃった時と同じように、うんうんと頷きながら耳を傾けて頂きました。
阪本さんは「新渡来人プロジェクト」を行い、海外に赴任していた人たちがその体験を日本人に語る場をつくっています。
そのときは必ず、自分の生い立ちを3分の1から4分の1語ってもらうようにしているとか。
そうでないと、聞いている人は「あー、すごいね」で終わってしまい、「自分ごと化」しない。
確かに、そうだ。ちょうどこの数日前にそんな間違いを犯した…
最後、阪本さんは「40歳を迎えるに当たって、何かデクレアーしてよ」と言う。
さてさて、何をデクレアーしようかな…
職人
字を書く職人にあった。
アーティストではなく、職人だそうだ。
「今のテーマは?」と問われ、今年の漢字を伝えると書いてくれた。
中国の漢字でこう書いて「ちょん」と読む↓
日本の漢字だとこうなる↓
大阪!
これ、隣にマッチ箱置かないとわからないけど、でかい!
2018年の目標の漢字
2003年から毎年漢字一字で目標をつくってる。
2003年:成
2004年:掘
2005年:開
2006年:締
2007年:飛
2008年:翔
2009年:忠
2010年:伝
2011年:愛
2012年:学
2013年:鴨
2014年:仕
2015年:交
2016年:蘇
と来て、2017年の目標の漢字は「信」だった。
2018年が「不惑の四十」となるはずの僕は、2017年1月当時、迷いまくっていた。
自分を信じることができない。
すると、周りの人たちも信じられなくなる。
JIAのことも信じられなくなっていた。
こんな状態から脱すべく、もがくように設定したのが「信」という目標だった。
まずは自分を信じなければならない。
しかし、その方法は全くわからなかった。
本当に嬉しいことに、そういう時、いろいろな人たちが僕にヒントをくれる。
- 2017年開始早々、「自尊感情」という概念を教わる。
- 3月には「苦手意識をまずは横に置いて、やってみよう」と、JIA以外にもうひとつの会社で兼業するという提案を頂く。
- 9月には「あなたは自信がないのではなく、自分に厳しいだけ」と言われる。
- 10月に気づかされたのは、僕は自分の過去に対して「不甲斐ない自分」として蓋をし、問題の本質に向き合おうとしていなかったことだ。結果として問題の本質は改善されず、それが周りの人への攻撃としても現れていた。蓋を開き、当時の自分を受け入れ、以後同じ過ちを繰り返さないことが大切だ。
- 11月、不思議な方法によって気づかされたことは、僕は実は自分のことを「やさしい、やわらかい、どちらかというと好き」と評価していることだった。
2017年という1年間は、40歳を迎える上で基礎となる、大切な1年になった。
過去1年を受けて、2018年は「冲」でいく。
中国共産党と国民党が戦っていたころ。
「突撃」を意味する「冲!」[chong]を両軍の将校たちは叫んだ。
ちがうところは、共産党の将校はそう叫びながら先頭に立って真っ先に突撃するのに対し、国民党の将校は隊の後ろに立ってそれを叫び、兵士たちに突撃させていたことだという。
そのため、共産党の将校は真っ先に死ぬ。すると二番手が先頭を走り、やはり「冲!」と叫びながら突撃する。三番手、四番手も同じように進み、隊は崩れることなく進撃していく。
国民党の場合、将校は後方にいるため、死ににくいが、ひとたび死ねば隊は総崩れとなる。
共産党の人民解放軍では将校から下級兵士までが軍のビジョンと戦略を肚の底から理解し、自分事として行動していた。だから将校が死んでも二番手、三番手がその替わりに隊を率いることができた。
今年はそんな1年にしたい。
価値を言語化すること。
それを伝えるべき人に伝えること。
そうやって戦友を増やすこと。
そして、そのひとり一人が自分事として動くこと。
それが、大きな力になる。