猪突猛進-原田燎太郎

World as One Family by Work Camp

このブログに書いてあること

 2002年から現在に至るまで、僕らは中国華南地方の6つの省にあるハンセン病快復村60ヶ所で活動し、参加者は延べ2万人以上となった。活動はインドネシア、インドなどに飛び火している。

 この18年間は、活動を中国に根づかせることに使ってきた。外国人である韓国人や日本人が始めた活動を中国人が「自分事」として行うようになり、それを運営する組織、法人、代表、資金を現地化する試みだった。その現地化の段階は下記のように区切ることができる。

 ① 韓国人と日本人による中国での活動開始(2001年~2002年)
 ② 現地学生の活動参画(2003年)
 ③ 活動団体(JIA)の設立(2004年)
 ④ 活動主体の現地化と活動地域の拡大(2005年~2007年)
 ⑤ 活動の組織化と法人登録(2008年~2012年)
 ⑥ 活動と組織の発展、資金調達の多様化(2013年~2016年)
 ⑦ 組織代表者の現地化(2016年~2018年)
 ⑧ 組織力強化(組織力での資金調達、各地区委員会の各地区での法人登録)(2019年~)

 僕は、このような活動の記録やその間考えてきたこと、感じたことをきちんとこのブログに残してこなかった。
 今、過去の資料をひっくり返しながら、ここに書き加えている。
 そして、その過程が、World as One Family by Work Campの第二章への道を指し示すのではないかと期待している。

★★★

2002年2月清遠市ヤンカン村ワークキャンプ

2002年2月(大学3年の2月)、就職活動中ではあるが、僕は中国のハンセン病快復村・ヤンカン村でのワークキャンプに参加する。

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新聞記者になりたかった僕は、志望動機蘭に書く:「記者になって、差別問題に取り組みたい」。昔いじめられたことがあった僕はふつうにそう思っていた。そこでふと、立ち止まる:「ところで、おれは差別しないのかな」。そんなわけで、このキャンプに参加することにする。

このキャンプはFIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)関西委員会と韓国のピースキャンプの合同主催のキャンプで、中国史上第2回目のキャンプとなる(第1回目ワークキャンプについてはMognet参照:

https://mognet.org/workcamp/china/2001china3.html

)。日本側リーダーはユ=ソンド(大学3年)、参加者は西尾雄志、吉沢さん、福田きよ子さん。その他の韓国と日本のメンバーは後から合流するらしい。

 

2002年2月19日

初めての中国

広州国際空港到着。車が多い。建物が大きい。HANDAの人ふたりがでかい車で迎えに来てくれる。ヤンカン村に向う途中の小さな町で買い物。路上で野菜を売っているおばさん。調子こいてバンバン買わせようとする。ほこりっぽい町。整然と区画整備されてる。爆竹バンバン。

ヤンカン村は1957年に設立された。当初300-400名が強制隔離収容された。ハンセン病の治療のためだという。

 

ヤンカン村へ

まったく整備されていない、土のでこぼこの山道を30分ほど上り下りするとヤンカン村に着く。村の入り口に男の人がひとり座っていた。後でわかったことだが、彼は立てないのだ。ソンドくん、西尾さんは車を降りて村の人と握手している。指がないように見えた。車から降りたおれは「ニーハオ」というのが精一杯だった。握手までしたら返って偽善的な気がした。

 

村のおばさんと飯をつくることになった。おばさんは字がかけないので、筆談もできない。やけくそで日本語で話した。身振り手振りでけっこう通じるものだ。何をつくるのかと訊かれ、手のひらに「炒飯」と書いたら、「あー、チャオハン!」とか言ってお互いに感激した。

 

村人(ハンセン病快復者)と筆談

夕飯後、西尾さんと欧さん(村人)と飲んだ。欧さんと筆談した:

原田:「我、原田僚太郎」。

欧:「我 欧鏡釗」。

西尾:「我 西尾雄志」。

欧:「日本有一位本多智子(女)她上次到来」。

原田:「汝好本多智子。她優女子」。

欧:「她能説漢語」。

原田:「本多智子話良中国語?汝欲言?我嬉共汝使漢字話」。

欧:「我們之間本来很多話要説、可是由于聴不倒你的話」。

原田:「汝好啤酒?我心深愛啤酒」。

欧:「我上次和她一斉出外購東西」。

原田:「野営食事?我不理解…?」。

欧:「進城市里買回来的」。

欧さんはおれを家に招いてくれた。写真や国際会議(?)の名札を見せてくれた。バナナもくれた。筆談で通じないところや、後から合流する本多智子さんに訳してもらうことにした。

原田:「我昨日二時間寝。今我感寝。明日再会」。

欧:「我送你」。

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感動と戸惑いが入り混じる筆談

村に来て…

けっこうハンセン病の後遺症の重い人が多い。手がこわばっている人が多い。鉄の義足をつけている人、立てない人もいた。

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はじめはこわいとか気持ち悪いとか言う気持ちがあったような、ないような、微妙な感じだった。夕飯をいっしょにつくるうちに(当たり前だが)村の人は(外見以外は)フツウの人とまったく変わりがないので、気にならなくなった。でも、欧さんが家に招待してくれたときはかなり戸惑った。バナナを食うときも。呼吸をするときも。写真を見るときも。うつらないってわかってるのに。でも欧さんは素朴でいいおじいさんだ。本多さんがくるのをとても楽しみにしていた。帰りに送ってくれた欧さんと別れ際に握手をした。かたい手だった。

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欧鏡釗

 1対1の個人的な関係

キャンプの初日のミーティングで、下のような一枚の紙を渡される:

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「中国キャンプに参加するみなさんへ

 

昨年の第1回ヤンカンキャンプは、韓国のカンサンミン君の多大なる努力により、実現した。1984年韓国のライ定着村「相信農場」キャンプの時、韓国側のリーダーから「韓国国内での仕事も少なくなるこれからは韓国人、日本人ともに手をとりあって東南アジアにキャンプに行こう」という呼びかけがあった。以来17年、フィリピンでキャンプをしたりもしたが、日韓合同でのキャンプはカンサンミン君の中国のHANDAとの地道な関係づくりにより初めて実現したのだ。

昨年のキャンプは、ヤンカン村の人たちとの深い交情もあり、成功裡に終わった。今回はその関係をもっと深めてほしい。

私たちワークキャンプの方法は、「らいの差別をなくす」という「正義」からことを始めるのではなく、現地に足を運び、村人の要請するワーク(ひょっとしたら村人にとって有益でないこともあるかもしれない)をこなしながら、村人とコミュニケーションを図り、その1対1の個人的な関係の中から、新しい活動の方向性や、エネルギーを汲み取ろうというものだ。

中国人とか、中国のライ快復者とかいう抽象から入るのではなく、ヤンカン村の誰々さんという具体から入ろうというのだ。今回の参加者が一人でもいいから「ヤンカン村の誰々さん」を得て帰ってきてほしい。

そして、そこで得たものを是非日本の人たちに知らせてほしい。そういう意味では日本を代表して参加するんだという自負を持ってもらいたいと思う。皆さんがしようとしていることはとても大切なことだという自信を持ってほしいと思う。報告会でのお話を期待しています。

参加できなくなった柳川義雄より」

 

去年の第1回ヤンカン村キャンプに参加した柳川さんからのメッセージだ。読んでは見たものの、わかったような、わからないような感じだ。

 

2002年2月20日 

村人たちの後遺症

韓国のキャンパーが騒然と到着する。みんなすごい勢いだ。日本の人とパワーが違う。さっそく自己紹介を兼ねたミーティングをする―韓国側リーダーのキム=ドンヨル、ワークリーダーのキム=チェチョン、会計のオウ=ソンスク、記録のキム=スヒョン、生活リーダーのソ=ドンヒョック。その他の名前は聞き取れもしない。

女子部屋に韓国メンバーがビニールシートで屋根を張るのを手伝った。韓国キャンパーはフィリピン人並みに働く。昨日の料理のおばさんと村のおじいさんが手伝ってくれた。じいさんは指がまったくない。足も一本は義足だ。それでも元気。激しい指示をみんなに飛ばす。もちろん中国語で。差別だとか偏見だとかはここでは無意味な言葉なのかな。みんな大声で楽しそうにしている。…でも辛い/辛かったんだろうな…。

僕らが泊まっている部屋の隣に住んでいるおばあちゃんは、指の第一関節がない。蛇口をひねるのも食器を洗うのも大変そう。でも、いつもニコニコしている。

みんな指がない。足がない。バイクで肉を売りに来ている人がいて、ヤンカン村のじいさんが肉を買っているところを見てたら泣きそうになった。買った肉が入ったビニール袋を持つのがたいへん。かろうじて出っ張りの有る親指に一生懸命引っ掛けようとしている。

今日はワークの初日。食堂の隣のかまどの部屋をシャワー室にする。かまどを破壊し、ススだらけの壁を洗って、終了。疲れた。

だんだん村人も慣れてきたのか、今まで見たことのない村人も出てきた。重い後遺症の人々だ。眼がかたっぽない人。足はたいてい片方しかない。鼻もかなり小さくなっている。

でも、何が問題なんだろう。病気はうつらないんだし。手や足や鼻がないだけ。みんな元気だし、ケンカとかふつうにしてるし。元患者の人が元気に、ふつうにしていれば、まわりの人もふつうに接するのかな。

 

2002年2月21日

朝。ついに来た。唐辛子・ニンニク排泄物に出口がやられた。ひりひりする。熱い。韓国に行ったことのある父の話はウソではなかった。

 

腫れ物に触れるように村人に接する自分

若い中国人がふたり来ている。誰かはわからない。ふたりは元気。大声でしゃべって笑っている。村人に囲まれてもなんでもない感じ。ファギュン(韓国のキャンパー)も度胸がある。中国人とガンガンしゃべってる。村人にも愛想を振りまき、次から次へと名前を訊いて握手している。

おれはひとり遠くから見ていた。

カン=サンミンさんがワーク資材を買いに行ったきり戻ってこないので、ワークをせずにみんな昼寝中。中庭のテーブルでファギュンがおばあちゃんにマニキュアを塗っていた。隣のおばあちゃんもその様子をいつものように笑顔で見ている。ファギュンはそのおばあちゃんにもマニキュアを塗ろうとする。おばあちゃんは笑顔で拒む。ファギュンは彼女の手に爪がほとんど残っていないことを知らないようだ。そのことを言いかけたが、やめた。おばあちゃんの笑顔にまったく曇りが見えないからだ。そのまま彼女は笑ってその場を離れた。

このおばあちゃんは偉大だ。好き。水道を使うのがかぶったとき、譲ってくれた。

明日は名前を訊こう。

 

たまたまその人がハンセン病だっただけ 

昨夜はキム=ドンヨルとファギュンと夜中の1時まで飲んだ。ずいぶん飲んだ。今夜もビールと中国ブランデーだそうだ。

ハンセン病のことをもう少し知りたくなり、福田きよ子さんに話を聴く。彼女は次のようなことを語る:

「村の人と自分との関係は、『ハンセン病の人と自分』ではなく、『誰々さんと自分』であって、たまたまその人がハンセン病だったというだけ」。

今回のキャンプを共催している韓国ピースキャンプの親団体・ジョナフェ(助癩会)の目標は、ジョナフェの活動がなくなること―つまりハンセン病問題がなくなること。そして次の問題へ取り組む。

FIWCはそもそも障害者支援、部落差別問題に取り組んでいたが、ハンセン病問題に取り組み始めた。きっかけは1960年代にYMCAのホテルに泊まろうとしたハンセン病快復者トロチェフさん(ロシア人)が宿泊拒否されたことだ。そしてFIWCはハンセン病快復者でもだれでも気楽に泊まれる施設を奈良に建てた。そのとき住民の反対運動が起こったが、元キャンパーの筑紫哲也らが住民を訪ね、説得して回ったそうだ。

歌手の加藤登紀子さんや彼女のダンナさんも大倭にあるその施設を訪ねたという。

韓国側のリーダーのキム=ドンヨルは語る、

「最初はハンセン病の人を見て驚いたけど、ふつうのおじいちゃん、おばあちゃんだとわかって、それ以来はふつうに交流してる」。

 

韓国の兵役

韓国には兵役がある。兵役後は終了証明のワッペンを軍服に縫い付けるので、今ドンヨルが着ているのはもはや軍服ではないそうだ。辛かったが、学ぶところは多かったという。

ワークキャンプの方が精神的にしんどい。軍は肉体的に厳しい」。

ドンヨルは兵役を通して、親のありがたみがわかったという。あーせー、こーせーという親の言葉の受け止め方が変わったそうだ。親孝行はこれからだと語る。手を振る親を振り返らず、38度線に出征した。遠いところに、一年間ひとりでだ。ひさびさに帰ったとき、親に手を振らなかったことを親戚に指摘され、夜ベッドでひとり泣いた。

20-25歳といういちばん勉強できる時期を兵役で使ってしまうため、国力が低下すると彼は心配する。いい点としては、兵役前は酒飲んで遊んでいたが、人生について、どう生きていくかについて考えるようになったことだ。

ドンヨルは言う、

「志願制であったとしても、自分の子供には、女であれ男であれ『行って来い』という」。

勉強はしんどいが、軍隊の苦労を思えば余裕だと思える忍耐力がつくからだそうだ。

語り続けるドンヨルと、言葉もよくわからない日本人がなぜか一心に聴き続ける、ヘンな魅力がある。

そういえば今日の午後、イギリスのジャーナリストが来た。通訳を通してくだらない質問をして、1-2時間村にいて、写真を撮って、それだけで帰った。何がわかるのか。

 

自分で壁をつくっているだけ 

「にどしょもみんじゅ?」

名前の聞き方はどうもこうらしい。片っ端から村人に聞いていく。台所のおばさんは「ちゅうかんじ」、白い毛糸の帽子のおじさんは「らうてゅんでゅ」、犬のおじさんは「りゃんりょうけ」、台所の横で水浴びをする義足のおじさんは「うぉんふぉーてぃん」と聞こえる。

年齢を感じた。眼の大きな子(キャンパー)に普通に敬語を使われた。たぶん4つくらい下の子。そういう年になったんだなと思った。

茶髪の、大阪の、…みつる君だったかな、彼はサングラスの韓国人にガンガンつっこむ。「(一気飲みで)お前、勝ったことないやん」とかなんとか。白い油性ペンキと赤い水性のを混ぜてピンクにしようとしていたときも、日本語で半分怒ってた。もともとの性格の問題やコトバの問題もあるかもしれないが、おれの接し方はどうなんだろう。

「社会をヨクしたい」とか、「差別や偏見を」とかいうのは妄想だ。こういうキャンプに参加する人もいるんだし、犯罪を犯すやつもいる。いつの時代も同じことだ。自分のことをやろう。自分が楽しめばいい。社会貢献したいやつはすればいい。金儲けたいやつはそうすればいい。

→いや、でもあがく?

“Was man nicht aufgibt, hat man nie veloren.”

 

ワークはペンキの下塗りで終了。カン=サンミンさんらが帰ってくるのが遅くなったため。ソンソックは遅い昼飯をカン=サンミンさんらのためにつくった。えらい。食堂をのぞくと、欧さんも食べてた。うまいって感動してた。

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料理チーム

2002年2月25日

活気のある市場

買出しにポーターとして付き合う。

文化って違うなぁと実感する。韓国料理しか食べない韓国人。自国文化を持ち込む。コチュジャンやキムチをわざわざ韓国からキャンプ地に持ってくる。日本の梅干を過度に警戒する。他方、フィリピン料理を食いまくる日本人。異文化をめずらしがり、どんどん試してみる日本人。

中国の市場は活気にあふれている。ヘンな乾物が多い。タツノオトシゴ、鹿の足(ひづめつき)、蛇…。野菜は地べたにシートをしいて売っている。きゅうり、ねぎ、赤唐辛子、青唐辛子、にんじん、キャベツ、芋…。なんでもある。葉っぱ系はかなり新鮮。

人間も多い。クラクション鳴らしすぎ。小さい子供がボーっとつっ立ってるのに対しても容赦しない。ビーッビーッ、ビッビッビッー。

活きてるニワトリも売っている。ガチョウ?アヒル?も。足を縛られるときは人間が泣くような声を出す。昨日村人の李さんが切ったときも、これが死ぬときの声か、と思うような悲しい、恐ろしい悲鳴を上げていた。

通りは碁盤の目状ではない。4階建てほどの住宅に沿って区切られている。1階部分は店になっている。

 

強さとは

やっぱり、どうしたって、おれは差別する。偏見を持つ。差別・偏見のない人間なんてそもそもいるのかな。サベツヘンケンをなくしたいなんて意味ないかな。

ジャーナリストになるのはなぜか。先輩のように志望理由を明快にいえないのは、ジャーナリストになりたいと思ってるからではないのかも。

社会を一度経験するためどこかに就職し、学費の借金を返してから心理学を勉強しようかな。社会がどうだとか言う前に自分の足元から変えていく。というか、自分が生きる術を身につけねば。

何でそう思ったかって?それがいえない。ジャーナリストとしては致命傷なのでは。

思い出した。肉屋のおやじを見たときに思ったんだ。彼はいつも汚いバイクで肉を売りに村まで来る。荷台に肉売り台がついている。値段交渉など商売を楽しんでる。きたねー服着た、きたねーオヤジだが、誇りを持って仕事しているように見える。楽しんでることは確かだな。貧しいながらも着実に食って行ってる感じ。そんなオヤジに、今の時点でおれは及ばない。

これはどの中国人にもいえることかもしれない。一生懸命、ひたむきに、でも淡々と生きてる感じ。オヤジの横では息子が仕事を見てる。こいつもいずれはオヤジのように強くなるんだろう(いつもバイクで肉を売りに村まで来るオヤジは市場にも店を持っていた)。

 

中国のヘンな名前集

  • 中国石化集団(ガソリンスタンド)
  • 麦当労(マクドナルド)
  • 可口可楽(コカコーラ)
  • 肯徳基(ケンタッキー)

揺れまくるトラクターに乗ってるから、書くのやめた。

 

プルコギのつくりかた

  • 豚モモ:3-1.4キロ
  • 焼酎:ひとまわし
  • にんにく:大さじ3

をまぜる。そして、

  • 唐辛子:肉の表面が真っ赤になるくらい
  • 砂糖:小さじ1
  • しょうゆ:大さじ1-2

をまぜる。そして

を加えて混ぜて、焼く。ゴマ油をたらしてもうまい。

 

昨日は飲みすぎ。チェチュンとビールを一気でガンガン飲み、ブランデー、蛇の酒も大量に飲んだ。最悪なことにセヨンとの約束を破った。覚えてなかった。サイアク。セヨンによると、今日の朝、彼をおれが起こし、いっしょに料理をすることになっていたそうだ。指切りまでしたらしい。なんとなく覚えている気もするけど、とにかく申し開きは一切できない。朝は顔を合わせず(合わせなかったように思う)、そのまま台所でしゃべってたらセヨンが肩に手を回してきた。なんだろう?と思ってたら、そのまま中庭のテーブルに行き、そこで昨日の話をして、ことが発覚した。

わかってるはずだ。おれは一気するとだめなんだ。今まで何度失敗してきたことか。ばかだ。年齢を考えろ。

 

2002年2月26日

「いいのかな」と思いながらの活動

いつも座り込んでいる村の兄ちゃんと中庭のテーブルでジュースのふたを転がして遊んだ。回転をかけて返ってくるように指ではじいて彼のほうに転がすと、彼は投げてよこす。楽しそう。ただ投げて返すだけなのに。誰かと何かをやってるという感覚が楽しいんだろうか。どうも話すこともできないようだ。名前を聞いたけど微笑み返すだけだった。台所のばあちゃんの孫と筆談し始めたらいつの間にかおれの隣にまわってきてた。I wanna water to drinkがわからず、ブロンディーナに聞きにいってる間に彼はいなくなってた。

きよ子さんと話す。

きよ子さんは20年以上越しで、「いいのかな」と思いながらボランティアをしてる。差別の気持ちはまだ消えない。

パーティーのあまりもののお菓子を袋につめて渡しているとき、ふと「私は施しをしているのでは。おごりでは」と思ったそうだ。でも、それを受け取るおばあちゃんのうれしそうな顔を見て、「ああ、喜んでもらってるんだからいいや」と思ったそうだ。

夕食のときにショックなことを聴いた。村にはいじめがあるそうだ。いじめられている人は一年ほど前に電気を切られてしまっているらしい。いじめはもう10年続いているとか。サンミンさんは電気を引こうと、すでに導線も買って来たらしい。でも村長さんは電気を引くことに否定的だとか。老朽化していて漏電すると危険だからというのが表向きの理由だが、実際は政府の役人の顔色をうかがってるのかもしれない。

いじめられている村人は村に籍がないため、政府から生活費を得ることができず、HANDAから多めにお金をもらい、そのお金でマージャンをしているとか。どちら側にも問題がある。村の問題にどこまで首を突っ込んでいいのか。

平和に暮らしていると思ったが、そうでもないらしい。きよ子さんによると重症な人への軽症な人の接し方にも差別意識が見て取れるとか。たまたまハンセン病だったというだけで、身体・知能障害もあればいやなやつもいるようだ。

セメントを床に敷き、タイルを張りつめた。はじめ、水をあまりセメントに混ぜない手抜き工事で早く作業を終わらせようとしたがうまくいかず、途中まではった後、水を混ぜなおした。韓国のおっちゃんがそれまでは張っていたが、怒り出した。「イルボン、イルボン」言ってた。日本人は働かないといっているようだった。働かないやつは出て行けともいった。そのくせ自分も帰っていった。

そもそも、水分のないセメントを敷き始めたとききよ子さんがサンミンさんに抗議してたのを彼が聞かなかったのが問題。彼はやさしそうに見える。でもソンドの話や日本人と韓国人への態度の違いからは少々不信感を抱く。

タイル張りは結局、夜中1時まで続いた。今回のキャンプで初めて「仕事した!」という感じ。その後のバーベQビールがうまかった。ドンヨルと「チングワイガァ」(私たちは友達)でカンパイした。西尾さんは「泥クサい、ビンボウでもええやないか」という考えで、ピロさんは理想主義だとか。ピロさんは理想にいたるまでの現実を嫌いすぎるため、うまくいかないらしい。「結局、世の中カネだ」って言ったら、「ピロと同じことを言う」と西尾さんに言われた。西尾さんのリーダー論は「リーダーは仕事せんでも理想を語れ。そうすれば次の世代が育つ」だそうだ。西尾さんの成功像は、柳川さんのようにキャンプをしつづけることだそうだ。

 

2002年2月27日

キムチチャーハンのつくりかた

  • キムチ:200グラム
  • にんにく

をごま油で炒める。

を加える。

を入れて炒める。

 

無計画にドイツ、フィリピン、中国とまわったが、すべてが偏見をなくすための旅だった。自分の眼で確かめることができた。

 

2002年2月28日

村人たちの人間模様

台所おばさんのずるさ。耳が聞こえず、しゃべることのできないニコニコおばちゃんに厳しい表情でと手振りで何かを命令していたが、おれと眼が合うと急に笑顔になり「ゾウサン」(おはよう)と言う。

いつもニコニコしているばあちゃんが昨日のバーべQで遠くに持っていかれた丸太の椅子を肩に担いで自室の前に持って来ようとしていた。飛んでいって手伝った。ばあちゃんの顔にいつもの笑顔はなかったように思える。

結局、ハンセン病の村だからといってみんな助け合って仲良く暮らしているわけではなく、健康な人とまったく同じようにいじめがあったり、弱い者にはいばり、強いものにはへつらう。右目がなくなっているばあちゃんに話しかけるニコニコばあちゃんは無視され続ける。顔がひきつってた。

ニコニコばあちゃんが釘を拾っていた。指の第一関節がほとんどないので、うまく拾えない。台所おばさんも拾い始めた。横取りでもするのかと冷や冷やして見ていたが、台所おばさんは釘をニコニコばあちゃんに渡そうとした。ニコニコばあちゃんは「あーあー」と低い声で言い、台所おばさんに釘をみんなあげた。少し救われた気分になった。

男子宿舎をソンドと掃除した。隣の村人のおっちゃんにちりとりを借りに行くと、彼は左脇にナタを抱え、手首のない右手のかさぶたを削っていた。ちりとりを奥から運んできてくれた。彼は両手両足がないため、左手に松葉杖を持つことができない。杖のもち手につけたひもを腕に引っ掛けている。両足は義足で、ガチャガチャ歩いている。ちりとりにごみを入れたら、おっちゃんは裏に捨てに行くと身振りで言う。右手のない腕にちりとりを引っ掛け、義足をガチャガチャ言わせながら松葉杖をつくおっちゃんの後姿は…。ボロボロになってもおっちゃんに死ぬ気はないように見えた。

 

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完成したシャワー室

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ソーラーシステムでシャワーのお湯が出る

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村のドアのペンキを塗り替えた

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ワークをしていると周辺地域の子供たちが「外国人見たさ」で村にやってくる

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村で開いたパーティーに来た、周辺地域の子供たち

韓国キャンパーたちの一足早い帰国

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泣いたけど、別れのつらさよりは、何もしてあげられなかったことへの涙かも。

男子宿舎の掃除の前、11時ごろ、韓国のキャンパーが村を去った。

朝飯が終わって皿を下げにキッチンに行くと、ソンソックがせかせかと働いていた。何となく居づらくてすぐに出た。HANDAの車が迎えに来て荷物を積み込み、みんな写真を撮り始める。住所やメールを交換している。おれはカメラを持ち出すことが何となくできなかった。ソンソックにも言いたいことが何も言えなかった。Thank youが精一杯だった。ドンヒョックにポンと方を叩かれると涙があふれ出てしまった。ソンソックに冷やかされた。女子部屋に招き入れられた。ふたりで何か話したかったのかも。でもファギュンが来てしまい、話せなかった。ソンソックはCDを聞かせてくれ、それをくれた。セヨンともドンヨルとも満足に別れることができなかった。

ソンソックと別れて泣くのはわかるが、セヨンやドンヒョックとの別れに際して泣くのはなぜか。おそらく、彼らがおれを慕ってくれたのにおれはたいしたことができなかった事にたいする無念さからだろう。チーヤンにもThank youしかいえなかったな…。

 

2002年3月1日

村人たちの涙

集合写真を撮るとき。ニコニコの林ばあちゃんが玄関を開けたとき、すでに一枚目が撮られようとしていた。林ばーちゃんはこっちを振り返りながらも、一生懸命ドアに針金で鍵をしている。そして松葉杖と義足でこちらに向う。急げ、ばあちゃん…。

ハンセン病元患者の「ほっといてほしい。私たちのことを思って下さるのならそっとしておいていただきたいのです」という意見と真っ向からぶつかる行為を林ばーちゃんはした。要するに、いろんなことを考える人がいるわけで、すべての人が満足することはない。ハンセン病快復村でも、療養所でも、その外でも同じということか。

2月19日は「ハンセン病快復村に入る」だったが、今日は「じいちゃん、ばあちゃんと別れる」だった。ニコニコばあちゃんにはかなりグッと来た。

昨日(韓国キャンパーが帰るとき)は写真を撮る気も握手する気も起きなかったが、今日は両方した。コミュニケーションの量の違いか。村人はみんな「明年再来」(来年また来い)と言って泣いてた。これだけ別れを惜しんでくれるなら、キャンプの意味はそれだけでもある。

きよ子さんと話したことを思い出す。そういえばフィリピンでも、みんな泣いてくれたよな。それでいいんだと思う。

 

村を去った夜。広州市内を流れる珠江を船で下る。両岸に立ち並ぶ高層ビルのネオンは大きいものが点在している。歌舞伎町のようにゴタゴタしておらず、返って効果的。漢字のネオンが多い。

船上の10元(約150円)の「ディナー」は、水と落花生のみだったため、中華料理を食べにいった。ツバメの巣、カニと間違えて頼んだすっぽんのスープはめずらしかった。60元(約900円)で腹いっぱい。

 

2002年3月2日

街には新鮮なものばかり

朝7時にきよ子さんと西尾さんと散歩。フリーデーのときに行ったマーケットにもう一度行った。フリーデーの帰りの待ち合わせ場所だった道路を隔ててマーケット側は貧しい地域、珠江側は豊かな地域になっている。マーケット側は小さな路地が多い。肉まんなども売っている。0.5元(約7.5円)でとてもおいしいものをひとつ食べた。住宅は8階建てくらいで、排気ガスで真っ黒になっている。ところどころに警察官が座っているためか、治安は良いように見えた。朝が早かったため、商店は閉まっているものが多かった。飲食店は開いていた。

珠江側は昨日も歩いたが、西洋風の建築物が建ち並ぶ。人々の身なりも整っている。テニスコートもあった。公園ではたくさんの人が所狭しと太極拳やダンスを楽しんでいる。外車も多く走っている(ワーゲンが多い)。

マーケット側は薄汚れた黒・茶色のイメージであるのに対し、珠江側は白・うす黄色のヨーロッパ的なイメージだった。

マーケットですっぽんをさばいているところを見た。首の後ろの甲羅のところからでかい包丁を入れていく。左右に切り開いていくとすっぽんは後ろへ首を伸ばし、包丁を攻撃しようとする。おっちゃんはすかさず包丁で頭を叩く。すっぽんが首を縮めるとすぐにまた甲羅を切り裂いていく。丸く甲羅がカットされると、おっちゃんはそれをむしりとる。首は甲羅の上側の中央部にしっかりと根っこがついている。ちんちんみたい。肉は手足の付け根の内側に少しあるだけ。甲羅の腹部は緑色をしていて、柔らかい皮のようだ。あそこをゆでてスープにすると、昨日食べた黒っぽいゼラチン質の食べ物になるのだろう。

朝飯にラーメンを食った。3元(約45円)で牛肉の煮込みがたっぷり入ったラーメンが食える。きよ子さんが食べきれないほどのボリュームがあった。その後、肉まんとギョーザ(蒸し)を食べた。両方ともうまい。肉まん3個、ギョーザ7個くらいで3元。激安だ。

 

帰国後の電車の中で

中国へ発つ日の早朝4時51分の電車に乗る前は、憂鬱だった。前日に先輩にしかられたこともあったのかもしれないが、ハンセン病に対する恐れが大部分を占めていたと思う。うつることはまずないことはわかっているのだが、それでも恐れが消えない。これが差別であり、偏見なのだろう。参加申し込みをしたことを悔いた。

その後、後悔・恐れは村に到着したときにピークに達した。HANDAの車の窓からはハンセン病の後遺症が生々しい人がたくさん集まってくるのが見える。ソンドと西尾さんは車から降りるなり握手している。おれはできなかった。笑顔は引きつっていただろうか、「ニーハオ」というのが精一杯だった。

そんな恐れも時とともに薄れていった。彼らはふつうのじいさん・ばあさんなのだ。みな親切だし、仲良く暮らしている。違うのは外見だけだ。義足の人、腕のない人、指のない人。一見恐ろしいが、日常接していれば、恐れは薄れる。山奥に閉じ込めておくから、彼らに対する恐れは増幅されるのだろう。

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ユートピアのように見えた村にも、いじめがある。障害の軽い人が重い人に対して威張ることもある。はじめは失望したが、考えてみれば当たり前のことだ。人と人が集うところではどこでもいがみ合いが生じる。そんなものがない社会は返って不自然だ。台所おばさんが見せる二面性がそれをよく表していると思う。

とにかくハンセン病の人間も、そうでない人間もおなじであるということが今回のキャンプを通してわかった。外見に対する恐れが消えることはないだろう。それでも、外見に戸惑いつつも彼らと接していけば、「ハンセン病の人」としてではなく、「林ばーちゃん(ニコニコばあさん)」として付き合える。こういったキャンプに参加する人が増え、その人から話を聴く人が増えていけば、露骨な差別(心の底での差別意識は消えないが、行動上の差別はかなり薄らぐ。行動上の差別を「露骨な差別」とした)は減っていくはずだ。

甘っちょろい理想主義が消えた。理想を語るだけではダメ。理屈をこねて行動を起こせなくしてしまうから。

「差別・偏見」は消えない。肉屋のようにまず自分が生きねばならない。ただ、交流によってふつうのおっちゃん・おばちゃんだということは理解できるようになる。

おれは過去を美化しがちだから、次のことを言うには気をつけねばならない。それでも敢えて言いたい:「行ってよかった。中国・ヤンカン村に行ってよかった」。

 

2002年3月6日

理想を語るだけではだめ。理屈をこねて行動を起こせなくしてしまうから。肉屋の親父のように自立せねば。ぐずぐずしてると肉屋のせがれにも及ばなくなるぞ。

 

2002年3月17日

ワークキャンプの反省会

2002年2月のヤンカン村ワークキャンプの反省会が奈良にある「交流(むすび)の家」というところで開かれるときよ子さんが言う。ワークキャンプ後、就職活動に戻っていた僕は、朝日新聞の入社試験を受けるためのエントリーシートの締め切りが迫っていたので、参加を断る。

 「大丈夫よ、そんなの奈良で書けばいいんだから」というきよ子さんに負け、結局、青春18切符で奈良まで来てしまった。

 

反省会では「キャンプの主導権」について主に議論される。

韓国側がキャンプの主導権を握っている。KP(Kitchen Police、キャンプ中の台所係のこと)をやっていればそれはよくわかるし、ワークをしていても薄々感じた。原因はカン=サンミンさんにある。彼はHANDAと地道に関係を築いてき、その結果として中国キャンプがある。その自信が彼には強く、韓日共催キャンプであるにも関わらず、最終決定権を彼が握り、当然と思っている。日本側の意見・要望を聞かないそうだ。

その問題が「午前1時ワーク」によく現れた。手抜き工事でタイルがくっつかなかったのだ。日本側の意見はなかなか聞き入れられなかった。日本側が夕食後のワークに参加しなかったのも問題だったのかもしれない。しかし、怒って持ち場を離れる李さんには同情できない。ワークをやりたいから持ち場につき、キャンプに参加しているのではないか。人がワークをしていようがいまいが、関係ないはずだ。主導権を握り切ってしまう韓国側も、柳川さんにも言える。

「きちんとシャワー室なり台所なり完成しているのだから、主導権をどっちが握ろうと関係ないのでは」と柳川さんに対して意見した僕は爆弾だったか。原さんに、一回しかキャンプに参加しておらず、自分のやりたいキャンプの形もないやつにはわからない、とたしなめられた。

 

カルチャーショック的にやさしい奈良の人々 

奈良はいいところ。女子高生が服装も態度もおとなしい。駅員が親切。地図を引っ張り出して、交流の家の場所を探してくれる。閉まるドアに手をかけ、電車に間に合うようにしてくれる。切符の拝見は車両の前方での一例で始まり、終わってからはまた前方で一礼する。郵便局では3月19日必着のエントリーシートを速達で出そうとすると、何度も何度も念を押される。中央郵便局に問い合わせて、「翌朝10時便」が何時までの受付かを聞いてくれた。「素朴で温かい」というお決まりの形容詞がよく似合う。昨晩のみつる、さおりの「東京人・東京弁冷たい論」と重なった。

 

2002年3月18日

奈良からの帰りの電車でー『むすびの家物語』

16:28京都、17:18米原、19:23豊橋、21:11静岡、22:04沼津と平塚の実家まで鈍行で帰る。電車の中では『むすびの家物語』(岩波書店)を読む。交流(むすび)の家できよ子さんに勧められ、その場でもらってしまった。

10ページにはワークキャンプの始まりについて書いてある。

第一次大戦後、スイスのクウェーカー教徒で良心的兵役拒否者であるピエール=セレゾールが提唱。1920年夏、戦争で廃墟と化したフランスのヴェルダン地方再建のため、敵だったヨーロッパ各国からボランティアが集まった。その精神を受け継いだアメリカフレンズ奉仕団(AFSC)のフロイド=シュモーの提唱で広島ワークキャンプが1949年に行われた。AFSCの内部機関として1956年FIWC発足。「ことばより行動を!」を合言葉に1961年独立。いかなる宗派・党派・団体とも無関係。

 

以下は『むすびの家物語』にある印象的な言葉:

P.14 ワークキャンプは「慈善」目的ではない。「何かおもしろいことをやりたい」と思っている学生の「生きがい探し」「仲間づくり」の場であり、学校では学ばない「自己教育」「自己鍛錬」の場。

P.81 交流の家完成時の谷川雁からの祝電:「何者とも結ばれることを拒む心のみが、何者かとついに結ぶであろうその日を祝いて」

P.31 交流(むすび)の家の名前は、「みんなが手を結ぶ家」に「一緒におむすびをほおばる家」をかけた。

P.39 「らいになったらみんな一緒になるんやで」

P.113 「まだ見ぬ人が私の運命を大きく変えてしまうかもしれないという期待と予感」

 

人間愛

特に心を打たれたのは、韓国のハンセン病快復者・金新芽がFIWCのワークキャンプについて与えた次のような評価だ:

P.120

「FIWCが来て一年に10日間働いていくんです。はじめは道端の横の土手に石を重ねて石垣づくりですね。二年目は下水道をつくってくださったんですよ。また三年目には上水道をつくってくださった。それが私たちの村に非常に便利を持ってきたんですね。生活に革命を持ってきた。

しかし、そういう外見的なものよりも、もっと大きなものは、私たち住民の心に植えてくださった人間愛ですねえ。若い人たちが来て奉仕してくださった、そういう過程において私たちの心に植えてくれたものがもっとも大きい。

周囲の人たち、まだまだ地域社会では私たちを白眼視する人もあるんです。そういう人たちに対して非常な啓蒙になるんですね。だから一回来て奉仕した後は非常に違ってくる。そういう面で皆様方の働きが非常な効果を持っているんです」

 

P.121 韓国版むすびの家建設計画

P.126 毎日新聞ハンセン病『強制隔離は人権侵害』」

P.132 鶴見俊輔引き足のある学生運動」…反対運動に直面した時、工事を中止し、和解後再開。

 

「らいはアジアを結ぶ」

もうひとつ、強烈な印象を残した言葉が、「らいはアジアを結ぶ」だった。

P.132

大江満雄(詩人)「らいはアジアを結ぶ」について、鶴見俊輔は「積極的なひとつの思想があって、タゴールの思想とか、ガンジーの思想とか、魯迅の思想がアジアをつなげる、そういうことではなく、負の状況がアジアをつなげる。日本にらいの患者がいる、韓国にいる、インドにいる、そのことに対して取り組もうという関心がアジアを結ぶ。それは詩人の直感として非常に立派だと思う」と語る。

最後に鶴見はキリスト教にしろ、左翼運動にしろ、アメリカにしろ、自分が正義だと思うことの危険性を指摘。「内なる声が聞こえないときには、待つしかない。待つことはできる。一緒に待ちましょう」。

P.143 らい予防法廃止があと20~30年早い→強制隔離・断種への補償問題→厚生省は飼い殺しを狙った。

P.144 「帰られぬ故郷へ夢で里帰り」

らい予防法を巡るマスコミ批判。「今まで鎮静され、薄らぎかけていたものがまた地域で持ち上がり、ついに家族に冷ややかなまなざしが注がれて苦悩が生じた現状も事実」「何も知らない人に今頃になって寝た子供を起こすようなことはとてもつらく嫌なことです。私たちのことを思ってくださるのなら、そっとしておいていただきたいです」。

P.147 「自分の妻にも子供にも結局兄のことは言えなかった」

 

非日常から日常へ戻る

そろそろ平塚のうちに着くというとき、『むすびの家物語』のP.156に、今朝まで一緒にいた福田きよ子さんの言葉を見つける。

「ささかやでも、”続けるってことがとっても大事”と思ってます」

ランばあちゃんの笑顔、韓国キャンパーたちの人懐っこさ、村人たちの涙、金新芽さんの言う「人間愛」、大江満雄の「らいはアジアを結ぶ」という画、それに加えて、きよ子さんの言葉、「続けるってことがとっても大事」―。

 

それらに想いを馳せながら、ヤンカン村キャンプの報告書(編集:西尾雄志)に感想を書く。

 

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報告書:

 

しかし、僕は、記者になりたい。ヤンカン村での気づきを基に、就職活動を再開する。