ひとりで暮らすハンセン病快復者のおばあちゃん
これまで中国のハンセン病快復村で14年活動してきて、ずっと心に引っかかっていたことがある。それは、広東省東部の梅州平遠県に独りで住んでいる楊四妹のことだ。
2003年7月17日。梅州平遠県の中心部から車で40分行くと山道に至る。山を切り開いてつくった崖道だ。ガードレールはない。運転を誤れば崖から落ちる。崖肌は土とも岩ともつかない剥き出しの斜面だ。荒涼とした風景が広がる。
50分間グチャグチャに揺られると、1軒の家が見えてくる。村人(ハンセン病快復者)の家だ。車を降りると、あたりは耳鳴りがするほど静かだ。緑はほぼない。人工的な形をし、乾燥した土色の山が周囲を囲む。日差しが強烈だ。周囲からの照り返しも含まれているだろう。
部屋の戸には中国共産党の標語がある。「共産党と共に歩もう」、「毛主席の話を聴こう」。戸を開けると、中央に吹き抜けがあり、その下に池がある。涼しい。それを囲うようにいくつかの部屋が並ぶ。そのうちの1つから、おばあちゃんの声が聞こえる。この小さな、痩せたおばあちゃんの名は楊四妹。部屋にはホウキ、メガネ、薬、耳掻き、日めくりカレンダー、洋服などがきちんと並んでいる。水道はあるが、電気はない。ガスもない。
彼女は眼が澄み切っている。変形した手を組み、シャツの襟に唇を触れながら話す。透明な笑顔の眼は時折、悲しみに変わる。何か高貴な美しさを感じる。中学生の頃、黒縁メガネの数学の先生が言った、
「女の人の本当の美しさは、年をとってから見えてくる」。
40分ほど滞在し、もう戻ることになる。僕が握手の手を差し出すと、おばあちゃんは一瞬何のことだか分からないという眼を見せる。彼女は暫し私の手を離さない。
車に向かうみんなの背を追う。振り返ると、おばあちゃんが部屋と部屋の間に小さく見える。松葉杖をついてこちらを見ている。彼女の左足は木の棒の義足だ。手を振ると、彼女はゆっくりと松葉杖を壁に立てかけ、手を上げる。部屋にあった中国共産党の赤い標語―「興無滅資」―が虚しい。
その後、僕はこの村と楊四妹を訪れていない。
そして、さっき、謝翠屏から連絡があった。
「楊四妹おばあちゃんのことを覚えている?明日、彼女を迎えに行って、東莞に連れて帰ってくるよ!」
謝翠屏はちょうど僕より一回り年下の女の子で、学生のときにワークキャンプに参加した。卒業後は東莞にあるハンセン病快復村を管轄する病院に就職し、24時間快復村に駐在している。村では「110番よりも謝翠屏の携帯番号」と言われるほど、村人たちからの信頼が厚い。彼女の仕事のひとつは、広東省の他のハンセン病快復村を周って村人たちのエピソードや古い道具などを集め、ハンセン病博物館を東莞につくることだ。そのとき、謝翠屏は楊四妹に出あった。謝翠屏とパートナーの黄焱紅は東莞と梅州の政府に掛け合い、楊四妹の移転への合意に至った。
JIAの活動がこのように波及していくことを本当に嬉しく想う…。
現在の楊四妹